翻訳しないおかえり

祖母と孫は、同じ家で違う言葉を話した。

祖母は故郷の古い方言しか使わず、孫は都会の言葉しかよく分からない。

食卓には小さな翻訳端末が置かれ、二人の間で毎日働いた。

『もっと食べなさい』

「成長のため摂取を推奨します」

『その服は寒そう』

「防寒性能が不足しています」

端末の訳は正しいが、祖母の小言から温かい部分だけを削ったようだった。

孫が留学する前夜、祖母は端末を両手で包み、

『帰ったら、おかえりと言わせて』

と話した。

端末は、

「帰宅時の歓迎を希望します」

と訳した。

祖母は首を振った。

何度も『おかえり』を繰り返し、そのたび端末の丸い外装を撫でた。

最後には翻訳を諦め、孫へその音だけを覚えさせた。

留学中、祖母は亡くなった。

孫は葬儀に間に合わなかった。

帰国した夜、誰もいない家で翻訳端末の電源を入れた。

保存された音声が一件あります、と表示された。

再生すると、祖母の声がした。

『おかえり』

端末は翻訳しなかった。

画面には原文の音だけが残った。

孫は何度も再生した。

翻訳設定を変え、別の言語を選び、解析をやり直した。

それでも『おかえり』だけは訳されない。

端末は、祖母に撫でられたあの夜から、その言葉をどの言語にも置き換えなくなっていた。

数年後、孫は通訳の仕事に就いた。

端末も持ち歩いた。

難しい契約も、医療の説明も、機械は正確に訳した。

ただ、誰かが『おかえり』と口にすると、原音のまま相手へ渡した。

外国から来た夫を家族へ紹介した日、母が玄関で『おかえり』と言った。

夫は意味が分からず、孫を見た。

孫は訳さず、

「帰る場所へ入るときの音」

とだけ説明した。

夫は何度か練習し、発音を間違えた。

それでも翌年、孫が長い出張から戻ると、玄関でその音を言った。

端末は黙っていた。

やがて二人の子どもも覚えた。

祖母の方言はほとんど家から消えたが、その一語だけは、意味を説明されずに残った。

翻訳とは、違う言葉を同じ意味へ運ぶ仕事だ。

けれど運ばず、その場所に置いたままだからこそ伝わる温かさもある。

古い端末は今も、それだけを知っている。