老いたあなたが、行けと言った

柳瀬絵都がウィーン行きの列車を待っていると、白髪の男が隣へ座った。

「そのチェロ、今でも重い?」

「失礼ですけど、どなたですか」

「兼平壮吾。三十年後の」

絵都の恋人と同じ名だった。

眉を上げる癖も、笑うと左だけ深くなる皺も、若い壮吾をそのまま老けさせた顔だった。

明日、絵都は留学する。

今夜、壮吾は駅へ来て「行かないでくれ」と言う予定だった。

「君は残る」

老いた壮吾は言った。

「僕らは結婚する。穏やかに暮らす。子どもはいない。犬を二匹飼う」

「幸せだった?」

「不幸ではなかった」

その答えが怖かった。

絵都は留学を諦め、町の音楽教室で働いた。

演奏会には行かなくなり、チェロは押し入れへ入った。

壮吾は彼女を愛し続けた。

だからこそ、夢を失った理由に自分が含まれていると知りながら、三十年何も言えなかった。

「五十九歳の君が、ある朝チェロを捨てる」

「どうして」

「弾かなかった自分を、もう責めたくないって」

「私はあなたを恨んだ?」

「一度も。そこが一番つらかった」

老いた壮吾は、若い自分宛ての封筒を差し出した。

〈引き止めるな。愛されることと、残ってもらうことを同じにするな〉

「これを渡せば、あなたの三十年は消える」

「犬たちも、暮らした家も」

「それでいいの?」

「よくない。だから僕が来た。君には頼めない」

ホームの端に、若い壮吾が走ってくるのが見えた。

老いた彼の輪郭が薄くなる。

「絵都。あの人生でも、君を愛してた」

「今の私は?」

「行ってほしい。好きだから」

若い壮吾が到着したとき、ベンチには絵都と封筒しかなかった。

彼は手紙を読み、顔を上げた。

「誰の字だ」

「あなたの」

「何歳の?」

「私を三十年愛した人の」

発車ベルが鳴った。

壮吾は泣きながら、チェロを車内へ持ち上げた。

「行かないで、って言うつもりだった」

「うん」

「行ってこい」

「うん」

列車が動き出す。

絵都は窓越しに手を振った。

壮吾も振った。

二人は、確かにあったはずの三十年を失った。

代わりに、これから別々に選ぶ未来を得た。

絵都の記憶には、老いた壮吾の皺だけが残った。

自分の夢を取り戻すために消えてくれた、恋人との長い暮らしの名残として。