聞こえなかった音の第一位
父は、聞こえていないことを認めなかった。
玄関の呼び鈴には「鳴ってない」と言い、鍋の吹きこぼれには「見ていた」と言い張った。僕が話しかけても返事がなく、声を大きくすると「怒鳴るな」と怒った。
ゴールデンハムスターの名はノイズだった。
夜中に回し車を鳴らし、給水器をかじり、床材を山ほど掘る。母が「この家でいちばんうるさい生き物」と笑ってつけた。母が亡くなったあとも、ノイズだけは同じ時刻に騒いだ。
ある晩、僕は父へ尋ねた。
「ノイズの車、聞こえてる?」
父はテレビから目を離さず、「もちろん」と答えた。
僕は回し車を手で止めていた。
その翌週、学校の吹奏楽発表会があった。父は最前列に座った。僕がクラリネットを吹くと、周りより少し遅れて拍手した。指揮者の手と客席を見て、合わせていたのだ。
帰宅して、僕は言ってしまった。
「聞こえないなら、来なくてよかったのに」
父は何も言わず、ノイズの餌を替えた。
三日後、食卓に補聴器の説明書が置かれていた。
検査を避けていたのは、母の最後の呼びかけを聞き返せなかったことが怖かったからだと、父は言った。聞こえなくなった自分を認めれば、あの声まで本当に失う気がしたらしい。
「でも、おまえの次の音まで失うのは、もっと怖い」
補聴器をつけて帰った日、父は家の中で何度も立ち止まった。
冷蔵庫の低い唸り。
ケトルの沸く音。
僕の靴下が床を擦る音。
そして夜、ノイズが回し車を走り始めた。
父はケージの前へしゃがみ込んだ。
「こんなに、せわしない音だったのか」
笑ったあと、泣いた。
僕は発表会で吹いた曲の最初の四小節を、小さな音で吹いた。父は目を閉じ、今度は誰より早く拍手した。
一週間後、冷蔵庫に父の書いた紙が貼られた。
〈聞こえるようになって驚いた音〉
五位 自分の咳。
四位 雨。
三位 ノイズの回し車。
二位 クラリネット。
一位 おまえが「ただいま」と言う前の鍵の音。
僕はその下へ書き足した。
〈聞いてほしい音は、まだたくさんある〉
夜になるとノイズが走った。
同じ場所を回りながら、止まっていた父と僕の時間だけを、少しずつ先へ運んだ。