英雄にならない夜
木賊朝矢は、六十二歳まで一度も表彰されたことがなかった。
物流倉庫の夜警を十五年。異常なし、と書くために廊下を歩き、誰にも読まれない報告書を積み上げた。家族には地味な仕事だと言われ、自分でもそう思っていた。
未来の市役所から通知が届いたのは、火曜の巡回中だった。
〈故・木賊朝矢氏 市民勇気章授与式。強盗事件に際し、身を挺して三名を救助〉
式は一か月後。つまり朝矢は、それまでに死ぬ。
恐怖より先に、胸の奥が熱くなった。自分にも一度くらい、意味のある夜が来る。新聞に名前が載り、疎遠な息子も父を誇るかもしれない。
通知に添付された式次第から、事件の日付が分かった。朝矢は誰にも言わず、その夜を待った。休憩中には表彰式の想像をした。壇上の遺影、頭を下げる市長、息子へ渡される勲章。生きている自分には向けられなかった敬意が、死ねば集まる。その考えを恥じながらも、捨てきれなかった。家へ帰ると、疎遠な息子へ『元気か』と打ち、送信せず消した。英雄になる未来のほうが、父親として失敗した過去より話しやすかった。
けれど前日、同じ班の新人が妻の出産で休みたいと頭を下げた。代わりに入るのは、足の悪い古参だった。朝矢が逃げれば、誰かが英雄になる。
朝矢は倉庫の死角を洗い出し、壊れた照明を交換させ、非常ボタンの位置を三人に教えた。警察には不審車両の情報を伝えた。上司からは大げさだと笑われた。
事件の夜、裏門に二人組が現れた。明るくなった通路と増設されたカメラを見て、何もせず引き返した。警察が近くで確保した。けが人はなく、記事にもならなかった。
翌月、市民勇気章の通知は端末から消えた。
朝矢は少しだけ寂しかった。自分の名前が世間に残る未来を、自分で潰したのだ。
その年、彼は夜警を辞め、町内の店を回って防犯点検を始めた。料金は安く、礼を言われない日も多かった。それでも暗い路地に灯りが増えるたび、朝矢は報告書へ丸をつけた。
異常なし。
昔は空虚に見えた四文字が、誰も英雄にならずに済んだ夜の記録だと、今は知っている。