蜂蜜入りの水を飲まずに

「喉を潤して。蜂蜜入りだから、声がよく伸びるわ」

 帝都聖歌院の控室。銀縁の眼鏡をかけた伴奏教師が、紬希へ白磁の杯を差し出した。

 杯の縁に描かれた小さな雲まで同じだった。

 前の人生の紬希は礼を言って飲み、本番の最高音で声を失った。緊張で潰れたのだと笑われ、不合格。三日後には喉が腫れ、二度と歌えなくなった。教師が有力受験生の叔母で、蜂蜜へ声帯を麻痺させる眠り花を混ぜたと知ったのは、彼女の葬儀で流れた自慢話からだった。

 舞台袖の鐘が一度鳴る。あと五分。

「さあ、冷める前に」

 教師が同じ言葉を重ねた。

 前の紬希なら「ありがとうございます」と飲んだ。

 今の紬希は杯を受け取り、窓辺の小鳥籠へ歩いた。

「ちょうどよかった。この子も、喉が渇いているみたいです」

 学院では音程確認用の白いカナリアを飼っている。紬希が杯を餌皿へ傾けると、教師の手が素早く伸びた。

「鳥に蜂蜜は毒よ!」

「では、人に飲ませる前に成分を調べましょう」

 紬希は一滴だけ、銀の音叉へ落とした。眠り花を含む液体は銀を青く曇らせる。未来で薬師に教わった簡単な検査だった。

 音叉は、見る間に空色へ変わった。

 舞台監督が息を呑む。

 教師は杯を奪おうとしたが、紬希は一歩退き、そのまま音叉を鳴らした。澄んだラの音が控室を抜け、審査席まで届く。

「何事です」

 院長が幕を開けた。

 紬希は説明を長引かせない。青く変色した音叉と杯を差し出し、舞台へ進んだ。

 伴奏者は急きょ別人になった。紬希は一度だけ息を吸う。蜂蜜の甘さではなく、乾いた木の舞台と幕の埃の匂いがした。前の人生と同じ課題曲、同じ入りの四小節。けれど最高音は砕けず、天井の硝子飾りを震わせた。青い音叉まで共鳴し、曇りだけが粉のように剥がれ落ちる。

 歌い終えるより早く、審査机の中央にある白い羽根が立ち上がる。全審査員一致の印だ。

「次の受験者を」と言うはずだった院長が、初めて別の言葉を口にした。

「紬希さん。あなたには、明日からここで歌ってもらいます」