袖一枚ぶんの記憶
倉科綴里は、仕立て屋の台へ母の着物を広げた。
薄紫の地に白い藤が垂れている。母は生前、「あなたの結婚式で着せる」と何度も言った。綴里が結婚の予定はないと答えるたび、「今はそう言っていても」と笑った。
成人式の日も、綴里が選んだ緑の振袖を母は認めず、この着物の前で写真だけ撮らせた。アルバムには薄紫を着た一枚しか貼られていない。母にとって、娘の選択は時間がたてば訂正される下書きだった。
着物は桐箱に入り、箱の蓋には〈綴里へ〉と墨で書かれていた。名札のような三文字を見た瞬間、受け取ることまで決定済みにされた気がした。
叔母は電話で、着物だけは切らずに残せと言った。
「姉さんの夢だったのよ」
「母の夢を、そのまま私の収納にしないよ」
「売るなんて罰が当たる」
綴里は売るつもりも、丸ごと保管するつもりもなかった。仕立て屋に、袖の一部で文庫本のカバーを作り、残りは舞台衣装の素材として引き取ってもらえるか尋ねた。
店主は布を光へ透かした。胴裏には小さな汗染みがあり、襟には母の香水がかすかに残っていた。
綴里は、袖のどの藤を残すか自分で選んだ。満開の花ではなく、端にある小さな蕾にした。完成した人生ではなく、まだ形の決まらないものを手元へ置きたかった。
「一枚の着物に戻せなくなりますが、よろしいですか」
綴里はうなずいた。
叔母の声が強くなる。
「お母さんを忘れたいの?」
綴里は藤の模様を指でなぞった。忘れたいわけではない。けれど母が決めた未来の衣装を、着ないまま守り続けることも、覚えている証明にはならない。
「袖一枚ぶんは持つ。残りは使う人に渡す。それ以上は引き受けない」
叔母はしばらく黙り、「出来上がったら見せて」と言った。
「写真だけなら送る」
店主が裁ちばさみを入れる位置へ白い印をつけた。綴里はその線を見届け、着物を台へ残した。
数週間後に受け取る本カバーには、白い藤が一本だけ入るという。母の望んだ花嫁衣装ではなく、綴里が自分で選んだ物語を包む大きさだった。