裏返しの表札

五月女祥吾は、築八十年の実家を売却前に改修していた。二十七歳の住宅設計士で、古い家に残る不便な作法を嫌っていた。玄関脇の木製表札だけは、母が外すことを許さなかった。

家族チャットの固定メッセージには、祖母の声を文字起こしした一文がある。

《家の表札は、裏返してはいけない》

「名字を家の内側へ見せると、外と中が入れ替わる」という説明には、祥吾も母も笑った。ただ、表札の裏を見た者はいない。代々、塗り直すときも壁へ付けたまま作業したらしい。

古い登記簿では、表札を交換した年ごとに土地の内外が逆転していた。家屋が道路として記録され、道路の所有者欄へ五月女家の故人が並ぶ。修正申請を出した役人は、全員その家の住民票へ移されていた。

改修最終日、台風が接近した。雨は道路から家へ降るのではなく、軒下から空へ吸い上げられるように見えた。作業員は玄関へ入るたび、なぜか「お邪魔します」ではなく「行ってきます」と言った。表札の金具が外れかけ、風で壁を叩く。作業員は持ち帰って修理すると言ったが、母は旅行中で連絡がつかない。祥吾は文字面を雨から守るため、玄関の棚へ伏せて置いた。裏返したのは、その一度だけだった。

裏面には、五月女家の故人の名がびっしり彫られていた。最後の一行だけ新しく、「祥吾」とある。

その夜から、スマートドアベルの通知がおかしくなった。誰も来ていないのに《居住者が玄関から訪問しました》と鳴る。録画には、家の中から扉を開け、外へ向かって呼び鈴を押す作業員や母の姿が映っていた。全員、実際には家にいない時刻だった。

祥吾は表札を元へ戻した。しかし玄関アプリの間取り表示では、道路側が「室内」、居間や台所が「屋外」になったままだった。

翌朝、宅配業者から電話が来た。

『五月女様のお宅に着きましたが、表札が家の中を向いています。こちらが外で合っていますか』

「そこは玄関です」と答えた瞬間、二階の寝室でチャイムが鳴った。

スマートロックの画面に通知が出る。

《五月女祥吾さんが退去しました》

祥吾は居間に立っていた。だが窓の外に見えるのは庭ではなく、家具のない自分の寝室だった。ベッドの脇で、誰かが表札をこちらへ向けて持っていた。