西口へ帰る風
「お帰りは西口です」
浮遊港の飛空艇ギルドで、フェーンは出航札を渡す受付係だった。
羽根族なのに翼は小さく、空を飛べない。乗客名簿の綴りを直し、遅延に怒る商人へ頭を下げ、迷子の荷物へ紐を結ぶ。欠航を告げるたび、「飛べない鳥に空の何が分かる」と罵られても、時刻表を折り直すだけだった。誰も、港を築いた伝説の《風祖》と彼女を結びつけなかった。
船童のバシュだけは、フェーンの机に古びた羅針盤があることを知っていた。針は北でなく、いつも彼女を指している。そして港の全飛空艇は、出航前に必ずその針と同じ方向へ船首をわずかに傾けるのだった。
嵐の午後、窓ガラスを破って男が飛び込んだ。
空賊王ガルヴァン。全身に雷をまとい、港の心臓である航路鍵を奪いに来たのだ。
「鍵を出せ。さもなくば、この港を雲の底へ落とす」
雷鳴と同時に乗客たちは伏せた。
荷物棚へ潜っていたバシュだけが、受付台の向こうを見た。
フェーンは名簿を押さえていた紙切り小刀を取る。
空へ向け、横に一度滑らせた。
切れたのは男ではなく、風だった。
空賊王を包む暴風だけが薄い布のように裂け、その力を失う。次いで、彼の身体を支えていた「空を飛ぶという理」まで断たれた。ガルヴァンは目を見開き、悲鳴を上げる間もなく、割れた窓から外へ落ちる。
だが地上へは落ちなかった。
フェーンが荷札の紐を一本弾くと、男は港の下に吊られた廃棄貨物網へすっぽり収まった。
彼女は航路鍵に触れもせず、割れた窓を逆向きの風で元へ戻す。床のガラス片も、焦げ跡も消えた。港下の貨物網には《危険物・着払い》の札が結ばれ、空賊王はそのまま巡回艇へ回収される。紙切り小刀はまた名簿の上に置かれた。
机の羅針盤だけが激しく回り、蓋の裏に刻まれた文字を見せた。
――飛空艇ギルド創設者、風祖フェーン。
バシュと目が合う。
彼女は唇へ指を当て、何事もなかったように迷子の鞄を西側の棚へ運んだ。
嵐が去り、乗客たちが起き上がる。
フェーンは乱れた制服を直し、出口を尋ねた商人へ微笑んだ。
「お帰りは西口です」