見積書、恋人一名
【遺品整理初日/残置物二百八十六点】
小鹿野蘭子が長内右京の部屋へ入ると、本人が冷蔵庫の上に座っていた。
「そこ、埃が多いですよ」
「死んでから鼻炎が治った」
「幽霊にも利点があるんですね」
右京は三か月前、急病で亡くなった。
海外に住む妹から、賃貸契約の終了までに部屋を空にしてほしいと依頼されていた。
蘭子が物を箱へ入れるたび、右京の輪郭は少しずつ薄くなった。
古いカメラを処分すると旅行の記憶が消え、欠けた茶碗を包むと、誰と買ったか分からなくなった。
【五日目/残置物百四十一点】
「生きているときに会いたかったな」
右京が言った。
「生きていたら、うちへ依頼は来ません」
「運命に営業努力が足りない」
「死後に口説く人へ言われたくありません」
笑いながら、蘭子も同じことを思っていた。
二人は夜まで話した。
右京は食べられない夕食へ点数をつけ、蘭子は彼が忘れた思い出を荷札の裏へ書いた。
十二日間で、恋は驚くほど普通に育った。
触れられないことだけが、普通ではなかった。
【最終日/残置物一点】
残ったのは合鍵だった。
妹からは二本とも返却するよう指示されている。
「一本、君が持てば」
右京は言いかけた。
幽霊は最後に残った所有物へ宿るという。
蘭子が鍵を持ち帰れば、彼もついて来られるかもしれない。
「持っていてほしい?」
「ほしい」
「私も」
蘭子は鍵を握った。
冷たい金属の向こうに、初めて右京へ触れた気がした。
「でも、私の部屋をあなたの墓にしません」
「厳しいな」
「好きな人を、帰れない場所へ閉じ込めたくないから」
「それ、別れの言葉?」
「はい」
「僕も好きでした」
「過去形にするの、幽霊は早いですね」
「未来形が苦手なんだ」
蘭子は鍵を封筒へ入れ、封をした。
右京の姿が向こうの壁まで透ける。
「見積書に僕は何点?」
「備品ではありません」
「では何者?」
「立会人。恋人。どちらも請求対象外」
右京は笑った。
最後に手を伸ばしたが、指は蘭子の頬を通り抜けた。
それでも彼女は、触れられた側へ顔を傾けた。
封筒を妹へ発送した瞬間、右京は消えた。
【作業完了報告】
残置物――〇点。
返却物――鍵二本。
廃棄物――百九十四点。
特記事項――なし。
蘭子は最後の一行を消し、書き直した。
〈特記事項――この部屋には、最後まで一人の人が暮らしていた〉
会社へ提出する前に、また消した。
報告書には残せない。
だから彼女は空室の扉を閉めるとき、誰もいない部屋へ言った。
「お世話になりました。さようなら」
鍵のない扉の向こうから、笑い声がした気がした。