解毒釜は返事をしない
ボリスの解毒釜は、怒鳴られても返事をしない。
黒鉄の釜は棚に並ぶ毒見本を読み、注文された症状に合う中和薬を勝手に作る。蛇毒なら月草、麻痺茸なら赤胡椒の根、沼蛭の唾液なら石灰花。分量を間違えれば毒になる素材も、釜の縁に刻んだ計算式が一滴単位で止める。できた薬は封印瓶へ入り、冒険者組合の救護箱へ転送される。
だからボリスは、森の家で鳥の声を聞いていればよかった。
彼が組合の毒物係だった頃、緑の革前掛けは薬液で硬くなり、腰紐は何度も結び直されて短くなった。夜中でも探索隊が戻れば呼び出され、休暇中に届いた緊急石は、今も机の引き出しで二十三回分の赤い光を溜めている。
昼下がり、解毒釜の取っ手が一度だけ鳴った。
《救護箱三十本補充。処方使用料、振込完了》
金額は、組合時代の危険手当より少ない。それでも毒霧の中へ走らずに得られる。何より、眠っているあいだに誰かの命を支えられる仕組みを作ったのは、ボリス自身だった。
そのとき引き出しの緊急石が跳ねた。
『第五隊が麻痺茸を踏んだ! 釜の癖を知るのはお前だけだ。すぐ本部へ来い!』
元主任の声は、昔と同じく命令形だった。
ボリスは窓から釜を見た。すでに紫色の薬液が瓶へ流れ、転送陣が光っている。
『薬は自動で届きます。私は行きません』
『現場を見ないで責任が取れるのか』
『退職した人間に責任を戻さないでください。手順書は三冊置いてきました』
緊急石を切ると、釜は何事もなかったように次の薬を混ぜた。ボリスは戸棚から木の駒を出し、庭の切り株に盤を広げる。
組合を辞めた直後、ボリスは誰かが毒に倒れる夢ばかり見た。自分がいなければ間に合わない、と飛び起きてから、空の部屋で朝を迎えた。そこで半年かけ、毒見本と症状記録を釜へ教え込んだ。個人の勘を仕組みに変えれば、救える人数は減らず、むしろ増えた。主任が必要としていたのは彼の腕ではなく、いつでも呼べる人間だったのだと、完成した百本目の瓶を見てようやく気づいた。
相手のいないチェスを一手だけ進めてから、彼は木陰へ長く横になった。釜は返事をしないし、ボリスももう、命令に返事をしなかった。