試乗予約は社長名義
高級車ショールームへ、瀬尾ノ森美弥はつなぎ姿で入った。
安全靴には雨水と工場の鉄粉がついている。受付へ新型車の試乗を頼むと、営業部長の多岐川颯馬は、カタログすら渡さなかった。
「整備のお仕事なら、業者口からお願いします」
「乗り心地を確認したいんです」
「こちらは二千万円からです。冷やかしの試乗は受け付けません」
美弥は車体下のブレーキ冷却口を見て、設計変更の理由を尋ねた。多岐川は答えられず、代わりに笑った。
「雑誌で覚えた知識を披露されても困ります」
若い整備士だけが、美弥の質問へ正確に答え、靴を拭く布を差し出した。美弥は彼の名刺をもらい、徒歩で店を去った。
翌日、新型車の全国発表会が同じショールームで開かれた。多岐川は富裕顧客へ、自分が開発部へ改善案を出したと説明していた。
壇上へ上がった親会社社長は美弥だった。
彼女は自動車グループの代表であり、新型車の車体設計を統括した技術者でもある。前日は工場の耐久試験を終え、販売現場が設計思想を理解しているか確認に来ていた。
「冷却口を変えた理由を、もう一度説明してください」
多岐川は黙った。
画面には彼が提出した“改善提案”が映った。内容は、若い整備士が半年前に書いた報告書の丸写しだった。さらに、購入意思を勝手に判断して試乗を断った記録が二十件以上ある。
美弥は整備士へマイクを渡した。
彼は、冷却口が雨天時の制動温度を安定させるためだと説明した。美弥は本社の製品教育チームへ彼をスカウトし、全国販売員の研修担当に任命した。
多岐川は慌てて言った。
「営業は数字です。私はこの店を地域一位にしました」
「将来の顧客を入口で捨てた数字は、売上ではなく損失です」
親会社はショールーム運営会社との管理契約を解除し、多岐川の職務権限を停止した。
新型車の試乗予約端末へ〈瀬尾ノ森美弥・開発確認走行〉と表示され、若い整備士が助手席へ乗る。
エンジンが静かに始動した瞬間、二千万円の車に触れさせなかった男だけが、その店の鍵へ二度と触れられなくなった。