謝罪のない返事

野々花は一日に何度「すみません」と言うか数えたことがない。病院の地域連携室では、紹介状が遅れても、医師の入力が違っても、患者家族の機嫌が悪くても、最初に謝るのが一番早かった。

「すみません、確認します」「すみません、お待たせしました」「すみません、今日中にやります」

 その言葉を口にすると、相手の不満を一度自分の中へ引き取れる。引き取ったものが夜になって重くなることには、見ないふりをしていた。

 隣席の八代岳は、会話の少ない診療情報管理士だった。長い前髪の下で数字だけを見ている。昼食は毎日同じクラッカー。質問には必要な単語だけ返し、雑談を振られると、聞こえなかったように画面へ戻る。

 金曜の午後、野々花が三度目の「すみません」を言ったとき、岳がメモ帳を差し出した。

『今日あと一回だけ、「すみません」を使わない』

「患者さんに失礼じゃないですか」

 岳は首を傾げた。それから、メモの下に小さく追記した。

『何を言うかは自由』

 正解は書かれていなかった。

 メモを机の隅へ置いてから、野々花は自分の声を意識するようになった。コピー用紙を受け取るだけでも、後ろを通るだけでも謝っている。言葉を減らすと、その場にいる資格まで失うようで落ち着かない。岳はそんな彼女を観察もせず、黙って診療記録を並べていた。

 十六時、外科医から内線が入る。翌朝の手術患者について、三十件の紹介画像を今夜中に整理してほしいという。通常なら半日かかる作業だった。

「すみません、今日中に――」

 言いかけて、岳のメモが目に入った。一回だけ使わない。それだけなら、明日から元に戻ってもいい。そう思うと、言葉の空いた場所が急に広くなった。

 相手は電話の向こうで急かしている。野々花は机の下で指を握った。

「今日中にはできません」

 沈黙が落ちる。胸が強く鳴った。

「明日の九時までなら、確認を終えて渡せます。緊急性の高い五件を先に指定してください」

 岳は画面を見たまま、何も言わない。外科医は短く息を吐き、五つの患者番号を読み上げた。

 通話を切ったあと、野々花は条件を書いたメモを自分の予定表に貼った。「すみません」のない文が、そこだけまっすぐ立っていた。