豆乳の膜を破る
牧瀬風花の取り皿に、豆乳鍋の白い膜が一枚、畳まれていた。
高校時代からの友人二人が、風花の新居へ持ってきた鍋だ。引っ越し祝いと言って、豆腐も鶏肉も切り、食器まで洗ってくれた。風花は礼を言いながら、自分の口座残高を思い出していた。
新居は、一人で払える家賃ではない。恋人と住む予定で契約した翌週、別れを告げられた。敷金も家具代も風花が出した。友人には「一人暮らしを試したかった」と話している。
二人で選んだソファの代金は、まだ十二回残っている。寝室の片側には組み立てていない棚があり、玄関には恋人の名前も印刷された契約書の控えが置かれていた。片づける順番さえ決められなかった。
表面が静まると、鍋にはまた薄い膜が張った。豆の淡い香りが部屋へ残り、取り皿は膝へ置くとじんわり熱かった。風花は膜を箸で寄せ、口へ入れた。舌に薄くまとわり、すぐほどけた。
友人は収納棚を見ながら、「二人分みたい」と言いかけ、言葉を飲み込んだ。箱から出していないマグカップが二つ、並んでいる。
風花は鶏肉を取らず、豆腐ばかり食べた。肉を残せば明日の食事になる。冷蔵庫には、この鍋以外ほとんど何もない。
友人の一人が、空になった風花の皿へ鶏肉を一切れ入れた。もう一人は鍋の火を止め、残りを保存できるよう蓋を持ってきた。相談も分担の言葉もなかった。友人たちは、助けることを大げさな約束にせず、目の前の鍋と箱へ分けていた。
風花は鶏肉を半分に切った。一口だけ食べ、残り半分を皿に置く。食べ切れば大丈夫なふりができる。残せば、明日も誰かに助けられた事実が残る。
テーブルの端には、家賃の振込用紙が伏せてある。風花はそれを表へ返した。
「来月までに、部屋を出るかもしれない」
友人たちは驚かなかった。一人が鍋の蓋を閉め、もう一人が空いている段ボールへペンで〈台所〉と書いた。
風花は皿に残した鶏肉を保存容器へ移した。白い膜は、破れば元に戻らない。それでも鍋には、すぐ新しい膜ができる。
守るものを失ったのではなく、次にできるものを待ってもいいのだと、風花は初めて思った。