赤い糸の十二時
佐伯日和は、親友との約束だけを忘れていた。
大学卒業の日、二人で同じ腕時計を買い、五年後の正午に会うと決めたはずだ。けれど場所も、会う理由も思い出せない。親友とは半年前から連絡が途絶えている。最後に約束の話をされたときも、日和は仕事を理由に返信を翌日へ回し、その翌日には何を答えるべきか分からなくなった。今日が五年目の当日だと気づいたのは、時計が正午の十二時間前から動かなくなったからだった。
紅林梢は、すべての指に赤い糸を巻いた時計職人だった。指輪のように結ばれた糸が、工具を取るたび揺れる。
「結び目が原因」
梢は日和の時計を見て即答した。赤い糸の端を歯で切り、修理台の四隅へ結ぶ。時計を閉じ込める檻のように見えたが、日和が身を乗り出すと、その一本が袖に触れて注意するように震えた。記憶へ近づきすぎないための境界らしい。
「縁が絡まってるとか?」
「そんな曖昧な商売はしてない」
文字盤の十二時に、赤い繊維が一本挟まっていた。梢はそれを抜かず、日和に親友へ送った最後のメッセージを読ませた。
『ごめん。忙しいよね。無理しなくていいから』
その前も、その前も、日和の文は謝罪から始まっていた。会いたいのに、断られる前に自分から引く。親友からの返信は短い。
『約束、忘れた?』
梢が赤い糸を引くと、卒業式の記憶がほどけた。
五年後の正午、どちらかが「ごめん」と言ったら、もう片方が止める。会えない理由を先回りして作らず、会いたいと口にする。二人が結んだのは再会の場所ではなく、その約束だった。
「場所は?」
「時計が知ってる」
修理された秒針は、十二時ではなく駅の方角を指した。日和が慌てて立つと、革ベルトが外れた。
梢は自分の指から赤い糸を一本解き、切れた留め具を結ぶ。
「結び目が原因じゃなかったんですか」
「結び方による」
店を飛び出す直前、日和は初めて謝らずに言った。
「行ってきます」
梢は赤い指をひらひら振った。
正午の駅前で、同じ時計をした親友が待っていた。日和のベルトを留める赤い結び目は、もう言葉を塞ぐものではない。ほどけないための、小さな勇気だった。