赤い線まで

折原佐和の前に置かれた器には、内側へ細い赤線が引かれていた。

午前二時。恋人は野菜スープを線ぴったりまで注ぎ、鍋を流しへ運んだ。器は持ち上げられないほど熱く、煮崩れた野菜は舌で押すだけで形を失った。

「冷める前に。残さないで」

恋人はそう言い、佐和の向かいで腕を組んだ。

赤線は彼が油性ペンで描いたものだ。一食分はここまで。夜は炭水化物を入れない。具材は二センチ角。佐和が体調を崩したときに始まった決まりは、いつの間にか帰宅時刻や交友関係にも増えていた。

最初は世話を焼かれることが愛情に見えた。友人との夕食を断るたび、「健康になったね」と褒められ、佐和も笑っていた。

採用面接へ行った日は、病院へ行くと嘘をついた。帰りの切符は捨てたが、嘘をつけた自分を責めるより先に、見つからなかったことへ安堵した。その瞬間から、ここは家ではないと分かっていた。

鞄の底には、遠方の支社から届いた採用通知がある。応募したことを彼は知らない。知れば、心配しているだけだと言いながら、通知を破るだろう。

佐和はスープを口へ運んだ。赤い野菜も、白い野菜も、同じ柔らかさだった。何を食べているのか分からないほど均一で、彼が好む「整った味」がした。

線より下へ水位が落ちるたび、恋人の肩から力が抜けていく。

あと三口になったところで、佐和は手を止めた。

「どうしたの」

答えず、最後から二番目の一口を飲んだ。器の底には、野菜が一片と、赤い汁がわずかに残った。

恋人の指がテーブルを叩いた。

「残さないでって言ったよね」

佐和はスプーンを器の上へ横向きに伏せた。食事の終わりを示す、レストランで覚えた置き方だった。彼の家では一度も許されなかった。

「ごちそうさま」

声は思ったより震えなかった。

佐和は立ち上がり、鞄から採用通知を出して赤線のそばへ置いた。恋人が紙へ手を伸ばす。佐和はその手より先に通知を折り直し、鞄へ戻した。それから器を持ち上げた。熱はもう、耐えられる程度に冷めている。

流しへ運ばず、残した一口ごとテーブルに置く。

玄関の鍵を閉める直前、背後で器の割れる音がした。けれど佐和は戻らなかった。

採用通知は佐和と一緒に廊下へ出て、赤い線だけが部屋の中に残った。