赤い返却印

帆足柾彦が市立図書館の閉架書庫で見つけたのは、子どもの頃に借りた本だった。

『海底二万里』。見返しには、昭和四十三年六月十二日の赤い返却印がある。

柾彦は七十歳になっていた。だが、その日付だけは忘れなかった。

小学五年の教室で、給食費の封筒がなくなった。担任に「心当たりは」と聞かれたとき、柾彦は隣の席の少年を見た。少年は転校してきたばかりで、訛りが強く、いつも同じシャツを着ていた。

「朝、先生の机のそばにいました」

それは本当だった。けれど、封筒を取ったのは柾彦だった。模型の潜水艦が欲しかった。

少年は翌月、また転校した。

柾彦が赤い印のページを開くと、書庫の冷気が六月の湿気に変わった。

手は小さくなり、膝には半ズボンが触れている。窓の外で蝉が鳴き始めていた。ページを閉じるまで、この日にいられるのだと分かった。

教室では担任が全員を立たせていた。

「正直に言えば、先生は怒りません」

昔の柾彦は、少年の靴先を見ていた。泥がついている。それだけで、自分より疑われやすいと思った。

今の柾彦は手を挙げた。

「ぼくです」

声は十歳だった。

教室がざわめく。担任の顔が赤くなった。

「何に使った」

「まだ持ってます」

机の奥から封筒を出す。模型を買う勇気もなく、隠したままだった。

少年がこちらを見た。怒ってはいなかった。ただ、ひどく疲れた顔をしていた。

放課後、柾彦は図書室で少年を待った。

「ごめん」

少年は『海底二万里』を指した。

「それ、面白い?」

「うん」

「じゃあ、貸して」

「図書館のだから、返してから借りて」

少年は初めて笑った。

柾彦が本を閉じると、閉架書庫へ戻った。

見返しの返却印の下に、鉛筆の文字が増えている。

《帆足へ。潜水艦の続き、まだ話してない。連絡くれ。野々村》

末尾には、最近書かれたらしい電話番号があった。

柾彦は老眼鏡を外し、何度も数字を確かめた。

閉館の音楽が流れ始める。

七十歳の指で番号を押すと、五回目の呼び出しで、同じだけ老いた声が言った。

「遅いぞ、帆足」