車麩にしみた夜

暖簾の向こうで店主が箒を持ち上げたとき、若い客が戸を開けた。時計は閉店三分前だった。

「もう、終わりですよね」

「おでんなら」

店主は鍋の蓋をずらした。白い湯気が立ち、昆布と薄口醤油の匂いが、外套に染みついた冷気を押し返した。客は鍋をのぞき、「車麩を一つ」と頼んだ。

丸い車麩は出汁を吸ってふくらみ、箸で触れると、表面から透明な汁がにじんだ。皿へ移されるとき、鍋の縁に当たって、ことりと小さな音を立てた。

客はその日の夕方、資格試験の不合格通知を受け取っていた。二度目だった。職場では合格すれば担当を任せると言われ、同期は先月すでに受かっている。参考書の束は部屋の隅に積んだまま、帰りの電車で売却価格まで調べた。机には、解きかけの模擬問題と、合格したら買うつもりだった新しい名刺入れが置いたままだ。

「これ、ずいぶん味が入ってますね」

からしを避けながら言うと、店主はおでん鍋の火を弱めた。

「染みるのは、後からです」

それ以上は言わず、箒を壁へ戻した。

客は車麩を小さく切った。歯を立てるたび、熱い出汁が内側からあふれた。外側は煮崩れているのに、中心にはまだ少しだけ乾いた弾力が残っている。からしをほんの少しつけると、鼻の奥がつんとし、滲んだ目が不合格のせいなのか分からなくなった。

スマートフォンで成績表を開く。合格点まで八点。分野別では法規だけが大きく足りない。画面を閉じようとして、客は思い直した。明日の昼休みに成績表を印刷する予定を入れ、法規の欄へ赤い印をつける、とメモした。参考書を全部開くのではなく、まず落とした問題だけを見直す。

三度目を受けるかは、まだ決められない。上司へ結果を告げるのも気が重い。同期の顔を見れば、また胸が狭くなるだろう。それでも、参考書の売却画面は消した。

店主が閉店札を掛けるころ、皿には薄い出汁だけが残った。最後の一片を噛むと、中心に残っていた熱がゆっくりほどけ、口の中へ遅れて広がった。