返事は一ページ遅れて
図書室のいちばん奥、『世界地図帳・改訂前』の箱には、交換日記が隠してあった。
粟飯原深雪と彼が決めたルールは一つ。自分の返事を書くまで、相手の新しい頁を読まない。
先に読めば、相手の言葉に引っぱられるからだ。右頁へ質問を書き、次の日、左頁へ返事を書く。そのあとで頁をめくり、相手の答えを知る。
だから会話は、いつも一日ずれていた。
――好きな教科は?
――好きな場所は?
――放課後、何をしてる?
――好きな人はいる?
最後の質問を書いたのは深雪だった。
翌日、地図帳の箱から日記を出す。ルールどおり、まだ彼の答えは見ない。深雪は左頁へ、前日の質問への自分の答えを書いた。
――いる。話すときより、字のほうが少し意地悪な人。
書いてから、耳まで熱くなった。
頁をめくる。
彼の答えは短かった。
――いる。図書室によく来る人。
深雪は息を止めた。
図書室によく来る人なら、何人もいる。司書の先生かもしれない。いつも窓際で寝ている三年生かもしれない。自分だと思うほど、深雪は勇敢ではなかった。
次の質問を書こうとして、手が止まる。
――その人は何年生?
――髪は長い?
――名前の最初の字は?
どれも探りすぎだった。
その日は日記を戻し、何も書かずに帰った。
翌日、箱の中には日記がなかった。
貸出カウンターで、彼が待っていた。
「ルール違反」と深雪は言った。
「質問が来なかったから」
「待てばよかったのに」
「一日ずれると、卒業までに間に合わない」
三年生だったのは、彼ではない。窓際で寝ているあの人でもない。改訂前の地図帳が、年度末に廃棄されるのだ。
彼は日記を開き、昨日の空白頁を見せた。
「ここ、今答えて」
「何を」
「字のほうが意地悪な人って、誰」
図書室なので、深雪は声を小さくした。
「返事は一ページ遅れてる」
「じゃあ、めくる」
彼が空白頁をめくろうとする。
深雪はその手を押さえた。
紙を挟んで、指先が触れた。
「待って。今、書くから」
深雪は貸出カウンターで日記を開き、相手の目の前で初めて返事を書いた。
――世界地図帳を隠し場所に選ぶような人。
彼は読み終えると、司書に注意されるほど大きな声で笑った。
その日から二人の返事は、一ページも遅れなくなった。