返信は九時から
舟木環の仕事用メールは、午前一時四十七分にも届く。
フリーランスのイラストレーターになって二年。依頼が途切れる怖さから、環はどんな時間の連絡にも十分以内で返した。深夜なら「起きていますので大丈夫です」、休日なら「すぐ確認できます」。早い返信は誠実さであり、会社に属さない自分が選ばれ続けるための保険だった。
夏の広告案件が終わる頃には、環は線を一本引くのに何度もやり直すようになっていた。好きだったはずの人物の表情が、どれも同じに見える。机の前に座ると眠くなり、布団へ入ると胸が騒いだ。
その夜、ようやく納品したラフに修正依頼が届いた。
《明日の午前中までに、表情をもう少し明るくできますでしょうか》
画面の白さが目に刺さった。環はすぐ《承知しました。これから対応します》と打った。送れば、また朝まで作業する。四時に寝て、八時に起き、眠くないふりでオンライン打ち合わせに出る。
カーソルが送信ボタンの上で点滅した。
環は文面を消し、新しく書いた。
《ご連絡ありがとうございます。明朝九時に内容を確認し、午前中に修正版をお送りします》
「今は確認しない」と書いているようで、何度も読み返した。相手はまだ起きている。今返さなければ、仕事を軽く見ていると思われるかもしれない。
それでも環は、送信予約の時刻を九時に設定した。予約済みの表示が出る。メールは書いたのに、まだ相手へ届かない。その宙ぶらりんな状態が不安で、環は三度設定画面を開いた。
四度目は開かなかった。
ペンタブレットの電源を切り、机の横に積んだ資料へ布をかけた。歯を磨くあいだも修正後の顔が浮かんだが、思いついた線をメモしなかった。
布団へ入っても、すぐには眠れない。冷蔵庫の作動音、遠くの車、上の階の足音が順番に聞こえた。環は、眠れない時間まで仕事に使おうとする癖を止め、ただ暗い天井を見ていた。
朝八時五十八分、目覚ましより先に目が覚めた。九時ちょうど、メールが送信された音がする。
環はその音を布団の中で聞いた。
二分だけ遅れて起きても、世界はまだ、修正前のまま待っていた。