返却口に残る声

鷺沢初音が大学図書館へ着いたとき、閉館まであと七分だった。

胸に抱えているのは、植物図鑑が一冊。借りたのは初音ではなく、先月亡くなった幼なじみだ。入院中でも図書館の返却期限を気にしていて、亡くなる二日前、初音の留守番電話へ一本だけメッセージを残した。

『机の下の青い本、返しといて。延滞すると、死んでもブラックリストかな』

冗談のあとに、ベッド柵へ何かが当たる音がする。泣かせるつもりのない、ただの用事だった。それなのに初音は一か月、幼なじみの部屋へ入れなかった。

今日、管理会社へ鍵を渡す前に机の下を探すと、図鑑は埃をかぶっていた。貸出票には返却日が赤く印字されている。とっくに過ぎていた。

入口はもう施錠され、外壁の返却口だけが白い灯りに照らされている。雨で濡れた図鑑をコートの内側へ入れて走ってきたせいで、表紙は初音の体温を持っていた。初音はそれを差し込みかけて、もう一度音声を再生した。

『ページの間、見てね。押し花とか挟んでないから。一応』

挟んでいないと言われれば確かめたくなる。初音は街灯の下でページをぱらぱらとめくった。高山植物、海辺の草、名前の似た黄色い花。貸出時の透明なカバーがぱりぱり鳴る。三百十二ページに、薄いレシートが一枚挟まっていた。角がページの形に折れ、何度も開いた跡がある。

病院の売店で買った炭酸水と、鉛筆一本。裏には幼なじみの字で「この花の名前、初音に聞く」とだけある。矢印の先に、小さな紫の花が丸で囲まれていた。

初音はスマートフォンでページを撮った。答えを伝える相手はいない。それでも、丸の横へ鉛筆で「マツムシソウ」と書きたくなり、やめた。図書館の本だからだ。

閉館を告げる館内放送が、壁越しにかすかに響く。

初音は撮った画像の名前を「マツムシソウ」に変えた。送信先のない答えを、少なくとも自分が忘れないようにする。それからレシートを自分の財布へしまい、図鑑だけを返却口へ押し込んだ。奥で本が一度滑り、重い音を立てて落ちた。