退部届は家族宛ではない
父が監督を務める野球部で、息子は一年生からレギュラーだった。
三年の春、退部届を出した。
「理由を書け」
「野球をやめたい」
「それは理由じゃない」
「もう楽しくない」
父は届を机へ返した。
「反抗したいだけなら、卒業まで待て」
「監督には話が通じない」
「父親を利用するな」
息子はその日から練習へ行かなかった。
家でも二人は口をきかない。母が間に入ろうとすると、息子は「監督の妻は黙って」と言い、父は「親に向かって」と怒鳴った。
一週間後、父は部員の日誌を読み、息子のページだけが白いことに気づいた。
ほかの部員には、失敗しても次の課題を書かせていた。息子にだけは、子どものころから「できて当然」と言い続けていた。
夜、父は息子の部屋へ行った。
「監督として話す。入っていいか」
「どうぞ」
「退部理由を聞く」
息子はしばらく黙った。
「失敗すると、チームメイトじゃなく父さんの息子が失敗した空気になる。打っても、監督の子だから使われてるって言われる。俺自身の野球が、どこにもない」
「言ったのは誰だ」
「犯人探しするなら話さない」
父は拳を握り、開いた。
「続けてくれ」
「やめたあと、何をしたいかはまだ分からない。ただ、分からない時間が欲しい」
父は退部届を受け取った。
「監督としては、戦力を失う。腹が立つ」
「うん」
「父親としても、寂しい」
「それを理由に止めないで」
「止めない」
翌日、父は職員室で正式に受理した。
帰宅すると、息子が夕食の皿を運んでいた。
「監督、醤油取って」
「家では父さんだ」
「まだ腹立ってるから、監督」
「では監督命令。醤油を取れ」
「権限乱用」
母が二人の間へ醤油を置いた。
退部後、息子はしばらく何もしなかった。父は口を出したくなるたび、練習メニューの裏へ書いて破った。
夏の終わり、息子は地域の子ども向け野球教室を手伝い始めた。
「野球やめたんじゃないのか」
「部はやめた。野球を嫌いになる前に」
父は初めて、その違いを聞いた。
退部届はチームとの契約を終える紙で、家族を辞める届ではない。
二人はまだ何度も衝突したが、監督と選手ではなく、父と息子としてやり直す試合だけは続いた。