逆さの指紋

鷺沢文乃鑑定官は、指紋票を顕微鏡の下から外した。

宝石店の金庫内側から採取された潜在指紋。前科者の蓮見隆真と十二点一致し、逮捕の決め手になった証拠だ。叶内達臣警部は、鑑定書の署名を待って向かいに座っている。

「何点なら確定だ」

「数ではありません」

「十二点ある」

「これは、現場から採った指紋ではありません」

文乃は拡大画像を二枚並べた。現場採取なら、黒い粉末は隆線に付着し、谷は白く抜ける。だが袋の中の透明シートには、谷にまで黒いインクが沈んでいた。留置場で採る十指指紋票を切り抜き、透明フィルムへ転写した跡だった。

叶内は画像を見ずに言う。

「採取剤が多かっただけだ」

「紙の繊維も写っています。金庫は鋼板です」

「蓮見は別件も認めている。無実の人間を作る話ではない」

証拠袋の熱圧着は二重で、最初の封を切った線が光に浮いた。開封記録はどこにもない。

文乃は取調べ映像を思い出した。蓮見は窃盗を三件認めながら、宝石店だけは違うと言い続けていた。嘘に慣れた男の否認など、誰も聞かなかった。

「このシート、上下も逆です」

「何が言いたい」

「採取者が付けた矢印は、金庫の蝶番側を示すはずでした。でも切り抜いた指紋を貼るとき、向きを間違えた。右親指が、左手で触れなければ残らない角度になっています」

叶内の指が机を一度叩いた。

「鑑定不能とだけ書け。すり替えなんて言葉を使えば、鑑識全体が疑われる」

「疑われるべきです」

「君の夫も同じ本部にいるだろう」

脅しは穏やかな声だった。文乃が署名すれば、事件は閉じる。拒めば、夫の配置も、自分の研究職も消えるかもしれない。しかも蓮見は善人ではない。守る価値があるのは彼ではなく、金庫に触れた本当の指と、警察が作ってはいけない一致だけだ。

文乃は鑑定書の結論を消した。代わりに『既知指紋票からの転写を示す紙繊維およびインク沈着を確認』と入力し、顕微鏡画像を添付する。

叶内が立ち上がる。

文乃はその前で電子署名を終え、原本の指紋シートを監察提出用の袋へ封じた。