逆さ文字盤
波多野梓は、白灯時計店のカウンターへ看護師用の時計を置いた。
丸い文字盤から短い鎖と留め具が伸び、数字は上下逆に印刷されている。胸元へ下げた人が見下ろしたときだけ、正しく読める作りだった。
梓は三年前まで病棟で働いていた。夜勤明けの階段で動けなくなり、そのまま休職し、退職した。白衣も靴も処分したが、この時計だけは引き出しの奥に残した。止まったままなら、過去も止めておける気がした。
今、放課後の子ども支援施設が、医療的な配慮のできるスタッフを募集している。資格欄に看護師免許と書けば有利だろう。けれど退職理由を聞かれるのが怖く、応募書類には接客経験だけを記していた。締切は明日だった。
空白の二年を隠せば、採用されてもまた時計を引き出しへ戻すことになる。そう分かっていても、失格と見なされるかもしれない一行を、自分の手では書けなかった。
店主は裏蓋を開け、古い電池を外した。新しい電池を入れると、秒針が一度震えて進み始めた。店主は梓の許可を得て留め具を上着の胸へ挟んだ。
向かいにいる店主から見れば、数字は逆さまだった。梓が顎を引くと、十二が上に来て、針は午後四時二十三分を示していた。
店主は作業票の〈使用方向〉という欄に、細い矢印を下向きに描いた。さらに時計を外し、今度はカウンター上へ逆さまに置く。梓側からは読めるが、店主側からは読めない。
「持つ人に合っていれば、これで正常です」
それ以上は言わず、交換した電池を透明な小袋へ入れ、修理品と別に返した。
梓は応募書類を開いた。資格欄へ〈看護師〉と書き戻す。退職理由には、〈体調を崩して退職。治療と生活調整を経て、現在は勤務可能〉と打った。立派に聞こえる言葉へ直さず、そのまま保存する。
送信前に時計を胸へ留めた。店の正面鏡には、逆さまの数字しか映らない。だが梓が見下ろせば、針は正しい向きで動いていた。
店主は領収書を梓の向きに回して差し出した。梓は応募ボタンを押し、その紙を時計の鎖の下へ重ねて受け取った。