透明傘の向こう側
「透明傘は嫌い。誰といるか、全部見えるから」
大路実乃里は、駅前のコンビニで最後の一本を見つめて言った。
隣にいた鷲尾朔人は、何も聞かずそれを買った。外はバケツを返したような雨で、傘なしでは一歩も進めない。
実乃里は生活雑貨を紹介する動画で少し知られていた。以前付き合っていた人との写真を偶然撮られ、交際から別れまで面白半分に追われたことがある。それ以来、朔人と二人で出かけても、人目のある場所では半歩離れた。
朔人はその距離を守った。荷物は持つのに、肩には触れない。夜道は送るのに、玄関までは来ない。実乃里が映り込んだ写真は、頼まれなくても誰にも送らなかった。好きだと言わないことまで、彼の思いやりに見えた。
透明なビニール越しに、向かいから来る人の顔が見える。実乃里は帽子を深くかぶった。
「俺、一本買ってくる。実乃里はこれ使って」
「売り切れ」
「じゃあ、少し離れて歩く?」
「それじゃ傘の意味ないでしょ」
朔人は困った顔で、できるだけ外側へ寄った。彼の右肩だけがすぐに濃い色へ変わる。
交差点で、信号待ちの女性が実乃里に気づいた。視線が朔人へ移り、スマホが持ち上がる。実乃里の足が止まった。
朔人は傘を彼女へ渡し、自分だけ雨へ出ようとした。
その袖を、実乃里がつかむ。
逃がさないように手首まで滑らせ、指を絡めた。朔人が驚いてこちらを見る。実乃里は帽子を少し上げた。
「隠さなくていいの?」
「全部見えるんでしょう」
実乃里は自分のスマホを開き、翌週の予定へ朔人を招待した。場所は以前から二人で行きたかった郊外の植物園。件名は《撮影下見》ではなく、《実乃里と朔人》にした。
「名前、出して平気?」
「出す相手は私が決める」
写真を撮ろうとしていた女性は、何も言わずスマホを下げた。朔人はつないだ手を握り返し、傘を二人の真ん中へ戻す。
「透明傘、本当に嫌い?」
実乃里は彼の濡れた肩へ自分の肩を寄せた。
「今は好き。隠してたものまで、見えるから」
透明傘の向こうで変わったのは、世間に見える姿より、二人が互いを呼ぶ距離だった。