透明傘は顔を隠せない
私は、駅の売店で五百円だった透明傘だ。
持ち主は夜間警備員の男で、毎晩ほとんど誰とも話さない。傘を差していても下を向くので、透明である意味がない。
ある夕方、急な雨が降った。
駅前の階段で、小学生の少年が大きな画用紙を抱えていた。紙には、色鉛筆で町の地図が描かれている。雨粒が落ちるたび、家や道の線がにじんだ。
男は私を少年へ差し出した。
「使え」
少年は男の濡れた制服を見た。
「おじさんは?」
「詰所まで近い」
実際は、坂を二つ越えた先だった。
少年は私を受け取り、地図を抱えて走った。男は雨の中をゆっくり歩いた。制服から水が落ち、靴まで濡れたが、顔はいつもより上を向いていた。
三日後、少年が母親と警備員室へ来た。
返された私は、持ち手に青いリボンを巻かれていた。少年の地図は、地域の防災コンクールへ出す作品だったという。避難所、消火栓、独り暮らしの老人宅まで記した地図で、雨に濡れていたら提出できなかった。
「おじさんも描きました」
少年は地図の隅を指した。
駅前に、小さな人が透明傘を差し出している。その横に、〈雨の日に助けてくれる人〉と書いてあった。
男は困った顔をした。
「名前も知らないのに」
「だから地図に描いた。知らなくても、いるって分かるように」
男は黙り込んだ。
彼は以前、火事で自宅を失い、住んでいた町を離れた。近所づきあいが苦手で、誰も自分のことなど知らないと思っていたらしい。警備の仕事も、町を守るというより、誰にも見られず夜をやり過ごすために選んだ。
けれど少年の絵の中で、男は駅と避難所を結ぶ道のそばに立っていた。たった一本の傘を渡しただけで、町の役に立つ人として描かれていた。
少年の地図は入賞し、駅の構内へ貼られた。
その日から男は巡回中、困っている人に少しずつ声をかけるようになった。道を尋ねる人、荷物を落とした人、終電を逃して泣く人。
私は何度も貸し出された。戻るたび、リボンや目印が増えた。
透明な傘は、持ち主の顔を隠せない。
けれど男はもう、下を向かない。
町の地図の中に、自分がいると知ったからだ。