途中で返す本
高槻小春は、読み終えられない本を鞄に入れていた。『二十代で決める、後悔しない公務員人生』。母が送ってきた本で、栞は百二十ページから一か月動いていない。
市役所の採用試験申込は、今夜二十三時五十九分が締切だった。安定している。福利厚生もいい。小春自身、そう説明するのは上手だった。けれど昼休みに開くのは試験対策サイトではなく、製菓学校の夜間講座のページだった。
閉館間際の図書館で、本を返却口へ差し込む。機械が吸い込まず、押し戻した。画面に見慣れない表示が出た。
〈途中の本は、本ではありませんか〉
小春が触れると、次の文字が現れた。
〈一冊だけ、読み終えずに返してください〉
「もう返してるんだけど」
小声で言うと、返却口がようやく本を飲み込んだ。代わりに細いレシートが出る。題名の下には、返却完了ではなく〈途中で終了〉と印字されていた。
途中でやめることは、失敗だと思っていた。高校で選んだ進路も、大学で取った資格も、違うと思ったあとほど熱心に続けた。やめた自分を説明するより、続けているふりをする方が簡単だったからだ。
返却レシートを指で撫でる。〈途中で終了〉は冷たい印字なのに、責める響きがなかった。本は返せる。時間も、選ばなかった道も、全部ではなくても返してよいのかもしれない。大学のサークルも、合わなかったアルバイトも、苦しくなってから半年は続けた。誰かに「もったいない」と言われる前に、自分で言ってきた。
外へ出ると、閉館の音楽が扉の向こうで途切れた。スマートフォンには母から〈申し込み忘れないでね〉と届いている。小春は返事をせず、採用試験の入力画面を開いた。氏名も住所も、すでに保存してある。残るのは送信だけだった。
そのタブを閉じる。胸が軽くなるのではなく、行き場を失った不安が膝まで落ちてきた。
小春は製菓学校のページを開き直した。まずは一日体験。クリームを絞るだけの三時間。人生を決めるには短すぎるが、明日の自分を変えるには十分だった。
〈予約する〉を押すと、鞄の中で返却レシートが、薄く折れる音を立てた。