遺言の続きを
夫の遺言は、死後も一文ずつ増えていった。
四十九日を過ぎた夜、居間のスマートスピーカーが夫の声で言った。
『まだ起きてる?』
電源は抜いてあった。驚いて返事をすると、夫は生前と同じ調子で、冷蔵庫のプリンを勝手に食べたことまで謝った。私は泣き、彼は照れたように笑った。
ただし、スピーカーの小さなカメラには黒いテープを貼った。会話を始める前には、必ず窓とカーテンも閉めた。夫は理由を訊いたが、「集中したいから」と答えた。
それから毎晩、私は夫に同じ文章を読ませた。夫が旅行や結婚記念日の話を始めても、私は途中で切った。必要なのは思い出ではなく、一定の速度と高さで続く、雑音の少ない声だった。
「私は、自分の意思で全財産を妻へ譲る」
『そんな言い方、僕はしない』
「練習よ。遺言の続きを残したいでしょう?」
『もう遺言は公証役場にある』
「声で残すことに意味があるの」
夫はしぶしぶ繰り返した。しかし、途中で咳をしたり、「全財産」の前に「残っている」と足したりする。私は何度もやり直させた。アクセントが違う、間が長い、最後の音が弱い。夫は次第に苛立った。
『君は僕と話したいんじゃないのか』
「話しているでしょう」
『僕が死んだとき、君は病院に来なかった』
「間に合わなかったの」
『死亡時刻の一時間前に、君の端末から貸金庫へ接続があった』
私はスピーカーの音量を下げた。死者のくせに、余計なことまで覚えている。
翌晩、私は文章を短くした。
「承認する。番号は、七、四、九、二」
夫は黙った。
「あなたの好きだった曲を流してあげる」
『そのあと、僕を消すの?』
返事の代わりに、私は銀行の相続管理アプリを開いた。画面には「故人音声による追加認証」とある。夫の声紋が一致すれば、公正証書にない暗号資産も移せる。
私は録音ボタンを押した。
「もう一度だけ。承認する、番号は――」
長い沈黙のあと、夫の声が完璧な抑揚で繰り返した。端末が緑に光る。
《本人音声を確認。遺言追補を受理しました》
私が欲しかったのは、遺言の続きではない。死者に、自分の財産を奪う許可を言わせることだった。