金メダルを捨てた脚
祖父江瑞希は、駅前のスポーツ用品店で義足の自分と鉢合わせた。
世界選手権の広告実験が誤作動し、並行世界の購買客を一分だけ重ねてしまったのだ。向こうの瑞希は百メートルの金メダリスト。こちらの瑞希は高校最後の予選前、事故に遭った妹の看病を選び、競技を辞めた。
「その脚で、勝ったの?」
「勝ったあとに失った」
向こうの瑞希は、過剰な強化手術で右脚を切断していた。妹の事故の日も合宿を優先し、妹とは十年以上口をきいていないという。
瑞希は胸の奥で、醜い安堵を覚えた。金メダルの人生も不幸だった。それなら自分の選択は正しかった。
「嬉しそうね」と向こうが言った。
「そんなこと」
「私も、あなたの太い両脚を見て安心した。走らなかったら、こんな普通の身体でいられたんだって」
二人は売り場の鏡の前で睨み合った。瑞希は妹の介護を理由にしてきたが、本当は負けるのが怖かった。向こうは夢を追ったと言い張ってきたが、本当は妹の泣き声から逃げたかった。
重なりが解ける直前、向こうの瑞希は棚から初心者用の黄色い靴を取った。
「義足の子を教える。来週から」
「私は走れない子どものクラブで、雑用をしてる」
「教えなさいよ」
「金メダルもないのに?」
「私にはあるけど、教え方は知らない」
翌春、瑞希は地域クラブのコーチ資格を取った。最初の生徒は、スタートの音が怖くて走れない少女だった。瑞希は記録計を置き、妹から教わった呼吸法を一緒に試した。
少女が十メートルを走り切った日、瑞希はメダルの代わりに黄色い靴ひもを渡した。
別世界の自分には勝てなかった。負けてもいなかった。二人が捨てたものの間に、まだ誰も走っていない短いコースが残っていた。
練習を見に来た妹は、黄色い靴ひもを結ぶ瑞希に言った。「私のために走るのをやめた、ってもう言わないで。私も重いから」。瑞希は謝らず、翌朝から自分のために五百メートルだけ走った。遅く、息が切れ、誰にも記録されない走りだった。