金魚鉢の青いソーダ
喫茶「水時計」の窓際には、大きな丸い金魚鉢がある。
金魚の名前は、赤いのが朝焼け、白いのが雲。店主の瑠璃子がそう決めたらしいが、客の椎名千景には、どちらもただゆっくり泳ぐ金魚に見えた。
千景は学校帰り、制服の上にジャージを羽織ったまま店へ入った。テーブルへ置いた楽器ケースには、吹奏楽部の名札がついている。
「今日は、練習が早いのね」
「辞めました」
口に出すと、思っていたより軽い音がした。
瑠璃子は理由を聞かず、「何色にする?」とクリームソーダのシロップ瓶を並べた。
「青」
「落ち込んでるのに?」
「落ち込んでるからです」
青いソーダの上に、白いアイスが浮かぶ。細かな泡が硝子の内側を走り、ストローを差すと、底から涼しい音が立った。
千景はコンクールのメンバーから外れた。顧問には「来年がある」と言われ、友人には「また頑張ろう」と言われた。どちらも正しい。正しい言葉を聞くほど、自分だけが間違いになった気がした。
「楽器、嫌いになった?」
瑠璃子が金魚に餌を落としながら訊いた。
「分かりません」
「じゃあ、今日は決めなくていいわね」
「でも辞めるって言いました」
「言葉は、言ったあとも育つから。明日、違う形になることもある」
朝焼けが餌を食べ損ねた。雲が先に口へ入れる。千景は思わず「ずるい」と呟いた。
「金魚は順位表を見ないのよ」
「見たら速く泳ぎますかね」
「たぶん、もっと疲れるだけ」
アイスが溶け、青いソーダに白い筋を作った。甘さが薄まり、最初より飲みやすい。千景は楽器ケースの留め金を一つ外した。中のフルートは、何も知らない顔で銀色に光っている。
「一曲だけ、吹いてもいいですか」
「金魚が驚かない音量なら」
店の奥の小さな中庭で、千景は息を入れた。最初の音はかすれ、二つ目は少し長く続いた。瑠璃子は拍手をしなかった。ただ、残ったソーダへ新しい氷を一つ落としてくれた。
帰り際、千景は退部届を鞄の底へ入れ直した。提出するかは、まだ決めない。
夕日を受けた金魚鉢では、朝焼けと雲が並んで泳いでいた。店の扉を開けても、青いソーダの冷たさと、バニラの甘い香りが舌に残っていた。