鍛冶師の耳鳴りを鎮める無響湯

 鍛冶町の外れにある《槌休め》は、風呂が一つしかない小さな宿だ。

 開店三日目、主人ガンドの前へ、老鍛冶師ブロムが鉄塊を抱えて現れた。

「湯ではなく静けさを売ると聞いた」

 彼の耳では、槌音が止まっても金属音が鳴り続けていた。高い音、低い音、割れた音。肝心の鋼が焼け頃を告げる声だけ聞き分けられず、今朝ついに弟子から槌を取り上げられたという。

「明日の王剣を打てなければ、五十年の炉を閉じる」

 ガンドは何も慰めず、地下の無響湯へ案内した。開業前、町の職人たちは「音のない風呂など、鍛冶屋に何の役に立つ」と笑った場所だ。黒い軽石に囲まれた湯船で、落ちた雫さえ音を返さない。壁には飾りも鏡もなく、音が逃げ込める穴だけが無数に開いている。

「耳を治す湯か」

「耳の中へ残った、要らない槌音を沈める湯です」

 ブロムが首まで浸かる。最初は顔をしかめていた。静かなはずの浴室で、彼にだけ千本の槌が響いているらしい。

 やがて湯面に輪が生まれた。一つ、二つ、百。見えない音が黒石へ吸われるたび、輪は小さくなる。

「何か聞こえますか」

「自分の歯ぎしりが」

「それは湯では直せません」

 ブロムは初めて鼻で笑った。

 湯上がりに、ガンドは受付に置いていた小さな鉄片を爪で弾いた。澄んだ音が一度だけ鳴る。

 老人の目が開いた。念のためガンドが別の二片も弾く。ブロムは目を閉じたまま、硬い鉄と焼き過ぎた鋼を順番まで言い当てた。

「炭素が足りん。しかも左端に細い亀裂がある」

 見事に当たっていた。ブロムは鉄塊を抱え直し、銀貨ではなく王剣用に精錬した小さな鋼片を料金皿へ置いた。価値は宿代の十倍だ。

「明日の夜も、この静けさを一人分」

「王剣は?」

「打てる。もう鋼の声を間違えん」

 その夜、ガンドは地下へ戻った。黒石の奥に吸われた無数の槌音が、遠い雷のように一度だけ鳴り、完全に消えた。

 朝、町の炉から規則正しい槌音が響いた。昼には《槌休め》の戸口へ、予約と刻まれた新品の鉄札が届く。

 ガンドがそれを掲げた途端、玄関鐘を震わせる太い手があった。