鍵は封筒の中
鍵屋の作業車が来るまで、あと十五分だった。
鳴瀬弓香は離婚後も半年、玄関の鍵を替えられずにいた。元夫は合鍵を返したと言ったが、夜中に廊下で音がすると体が固まる。ようやく交換を決めた夜、立ち会いを頼まれた椿野理生は、古い鍵を小皿の上で見つめていた。
二人は大学時代からの友人で、離婚後はほとんど毎晩メッセージを交わした。理生は弓香が好きだった。けれど好きと言えば、助けた時間を取り立てるように響きそうで言えない。安全な相手だと証明した者が、次の鍵を受け取る資格を得るわけではない。
弓香が初めて理生の部屋に泊まった夜も、理生は寝室の扉を閉めず、触れる前には必ず聞いた。そうした小さな確認が、弓香の呼吸を少しずつ戻した。理生はその変化を自分の手柄にしたくなかったし、安心を与えた代金として親密さを受け取ることだけはしたくなかった。
作業員から到着連絡が入り、弓香は新しいスペアキー用の封筒に理生の名前を書いた。
「これ、預けていい?」
「管理人さんに預けて」
「管理人、夜はいないよ」
「じゃあ会社のロッカー」
「理生に預けたいの」
弓香の声が少し強くなった。封筒一枚ぶんの距離で、理生はそれを押し戻した。
「私が持ったら安心?」
「安心する」
「それは、私が勝手に入らないって知ってるからでしょ」
「うん」
「なら、預けなくていい。私を信じる証拠に鍵を渡さなくていい」
弓香は唇を結んだ。
「元夫は、愛してるなら隠し事をするなって、財布もスマホも鍵も全部持った。理生には預けたいと思ったのに」
理生は封筒の表から自分の名前を消さなかった。その下に、電話番号だけを書き足した。
「預けて、じゃなくて、呼んで。怖い夜は何時でも来る。でもこの鍵で、私は自分から入らない」
インターホンが鳴った。作業員が古いシリンダーを外し、新しい鍵を三本並べた。
弓香は一本を自分の財布へ、一本を防災袋へ入れた。最後の一本は封筒に戻し、封をして管理会社の夜間預かりボックスへ入れた。
理生のキーホルダーには、最後まで何も増えなかった。