鍵穴に置く名
鍵部屋の侍女トゥリアは、王宮にある三百十二本の鍵を、音だけで聞き分けられた。
真鍮は明るく鳴り、鉄は低く鳴る。王女の菓子棚の鍵には、噛み跡がある。そんな小さな違いを覚えて十年、ようやく来週から鍵番長を任されることになっていた。新しい前掛けの胸には、銀糸で「トゥリア」と刺してある。
火事が起きたのは、その前掛けを試着していた夜だった。
東棟の物置から煙が上がり、避難したはずの末王女が、寝具庫の中から扉を叩いた。誰かが外側の錠を、鍵穴のない黒い錠へ付け替えていた。
黒い錠は、人の本名を鍵穴へ差し出せば一度だけ開く。代わりに、その名は口、文字、記憶のすべてから消える。
「王女殿下のお名前を使えば」
若い衛兵が言いかけ、トゥリアは首を振った。中から本人が名を渡すには、錠へ触れなければならない。扉は厚く、煙は下から入り始めている。
近衛隊長が斧を振り下ろした。刃が欠けただけだった。
「名を失えば、給与簿からも消える」と鍵番長が叫ぶ。「家族だって、おまえを何と呼べばいいか分からなくなる!」
トゥリアには城下に父がいる。休暇のたび、店先から名を呼んで手を振ってくれる。厨房には、彼女の名を間違えずに書ける菓子職人もいる。昇進を祝う小さな砂糖菓子を、明日の夜に一緒に食べる約束だった。
扉の向こうで、咳が一つした。
「鍵番さん、いるの?」
末王女はトゥリアの名を知らない。けれど、昼間に落とした鍵を拾ってもらった礼を、まだ言えていないのだと泣いた。
トゥリアは新しい前掛けを外した。銀糸の文字を指でなぞる。十年かけて、ようやく役目と並んで呼ばれるはずだった名前だ。
それを黒い鍵穴へ押し当てた。
「代価は、トゥリア」
錠が柔らかな音を立てた。銀糸が前掛けから一本ずつ抜け、煙の中へ吸われる。扉が開き、近衛隊長が末王女を抱き上げた。
「よくやった、トゥ――」
隊長の声が途中で止まった。
帳面を抱えた鍵番長が、空白になった給与簿と彼女を見比べる。
救い出された王女は涙を拭き、煤だらけの侍女へ丁寧に頭を下げた。
「ありがとう。あなたのお名前を、教えてくださる?」
彼女は答えようとして、自分の口の中にも、もう鍵がないことを知った。