鏡枠の手

伏見遼介は、事故物件を巡る配信者のカメラ係だった。本人は画面に出ない。その距離感が気に入っていた。

撮影先は、海沿いの旧家に残る「嫁見の間」。婚礼前夜、花嫁を鏡の前に座らせ、家の死者へ顔を覚えさせたという。管理人が渡した調査ノートには一行だけ赤線が引かれていた。

《配信画面の鏡の中で、自分より遅れて手が上がっても、手を振り返してはいけない》

配信者は大げさに読み上げた。鏡の縁には歴代の花嫁らしい名が爪で刻まれ、最後の一枠だけ空いていた。部屋には潮と古い白粉の匂いがこもっている。遼介は鏡へスマホを向け、遅延を測るためタイムコードを表示した。

午前一時十三分。音声だけが四秒遅れ、部屋の外から先に足音が聞こえた。配信者が右手を上げる。鏡像も同時に左手を上げた。

次に、画面の隅へ映り込んだ遼介が頭を掻いた。鏡の中の遼介は三秒遅れて同じ動きをした。

コメントが跳ねる。

《カメラマン遅れてる》

《鏡のほう笑った》

《手振ってみて》

遼介は映像遅延だと思った。検証するつもりで、鏡へ小さく手を振った。一度だけだった。

鏡の中の男は振り返さなかった。コメント欄には、遼介が手を上げるより前の時刻で《返した》という投稿が並んだ。代わりに、こちらへ掌を押し当てた。鏡面が水のようにへこみ、スマホの画面には《新しい接続先を検出》と表示された。

遼介が手を下ろしても、鏡の男の掌は残った。配信者が悲鳴を上げ、機材ごと部屋を出た。

翌朝、遼介の自宅では何も起きていなかった。玄関も施錠され、窓も閉じている。昨夜を笑い話にしようと、スマートホームの履歴を開いた。

【06:02 新しい居住者を追加しました】

名前:伏見遼介(鏡側)

権限:所有者

その直後、玄関カメラから通知が来た。

【伏見遼介さんが外出しました】

映像には、遼介と同じ服の男が部屋から出ていく姿が映っていた。男はドアを閉める前、カメラへ手を振った。

ベッドにいる遼介の腕も、三秒遅れて勝手に上がった。