鐘の鳴らない婚礼
セレスティアは鐘が苦手だった。
戦災孤児だったころ、空襲を告げる鐘のたび地下壕へ走った。平和になった今も、大鐘の音を聞くと足の裏から感覚が消える。
そのことを知るのは、婚約者のルドガー公爵だけだ。初めて大聖堂を訪れた日、鐘楼を見上げた彼女の呼吸が浅くなったのを覚えていた。
婚礼当日、王都じゅうの鐘を鳴らすのが慣例だった。公爵家の威勢を示すため、一時間鳴らし続けると司祭が誇らしげに説明した。
セレスティアは笑ってうなずいた。たった一日のことだ。耐えればいい。
ところが正午になっても、鐘は鳴らなかった。
代わりに聖堂の扉が開き、白い羽根が風に舞った。楽師たちは弦だけで静かな曲を奏でている。
「鐘楼の綱が切れたのですか?」
彼女が尋ねると、侍女が青ざめて首を振った。
「公爵閣下が、すべて外させました」
祭壇前のルドガーは、司祭たちに囲まれていた。
「前例がございません!」
「今日から前例になる」
「民は公爵家の婚礼を知ることができません」
「布告を読める者に読ませろ。耳を痛めてまで知らせる必要はない」
部下の失策には一切猶予を与えず、求婚者を侮辱した貴族を三日で領外へ追放した冷徹な男。そんな彼が、セレスティアのためだけに百年の慣例を黙って壊していた。
式が始まり、司祭が誓約書を読み上げる。
「花嫁は夫に従い、その庇護を離れぬことを誓うか」
セレスティアの胸がざわついた。古い文句だと分かっている。それでも「離れぬ」という言葉は、逃げ道を塞ぐ鎖に聞こえた。
返事が遅れた瞬間、参列者が息を呑む。
ルドガーは彼女の代わりに答えなかった。司祭から誓約書を受け取り、該当の一節を破り捨てた。
「閣下!」
「私の庇護は檻ではない」
彼は皆に見えるよう、聖堂の扉をさらに開かせた。外には雪解けの道が伸びている。
「セレスティア。ここに残るか、今すぐ出るか、君が選べ。鐘も誓いも、君を追い立てはしない」
彼女は開いた扉を見てから、ルドガーの隣へ進んだ。
静かな聖堂で、自分の意思だけが、どんな鐘より大きく響いた。