閉店五分前
時計の針が九時五十五分を指したとき、理央は喫茶「月舟」の扉を押した。
床には椅子が半分上げられ、カウンターの照明だけが点いている。店主の江波はモップを止めた。
「まだ、いいですか」
「一杯ぶんだけなら」
理央はカウンターの端へ座った。終電まで二十分。家へ帰れば、段ボール箱が待っている。明日の朝、恋人だった人が残りの荷物を取りに来る。
「いつものを」と言いかけてやめた。いつもここへ来たのは二人だった。彼はカフェオレ、理央は紅茶。互いのカップを取り違えて笑うのが決まりだった。
「ホットミルクをください」
江波は小鍋に牛乳を注いだ。火にかけ、膜が張らないよう木べらでゆっくり混ぜる。店内の音は、牛乳のかすかな沸騰と、外を走る車のタイヤだけになった。
白いカップには蜂蜜が一筋落としてあった。
「頼んでませんけど」
「閉店前は甘くする決まりです」
たぶん、今作った決まりだ。理央は何も言わず口をつけた。熱は舌ではなく唇に先に触れ、蜂蜜の香りが鼻へ抜けた。
壁の時計は十時を回ったが、江波は追い立てなかった。代わりに入口の札を裏返し、残りの椅子を静かに上げた。
「終わるって、もっと大きな音がすると思ってました」
「店じまいは、案外こんなものです」
最後のひと口は少しぬるかった。理央は代金を置き、空のカップを両手で包んだまま、あと三秒だけ座った。
外へ出ると、背後で鍵の回る音がした。振り返れば店の灯りが一つずつ消え、最後にカウンターの橙色だけが残った。それも消えるまで見届けてから、理央は駅とは反対の道を歩き出した。
口の奥にはまだ、温めた牛乳の甘さがあった。
段ボール箱を開けるのは明日でいい。そう決めると、夜道の寒さも急に具体的になった。理央は自動販売機の明かりの前で立ち止まり、両手をコートのポケットへ入れた。掌にはもうカップがないのに、丸い熱の形だけが、しばらく残っていた。