閉館後の避難経路

小暮芙実が劇場運営の戸川有砂から引き継いだのは、一枚の座席図だった。

有砂は翌日から産休に入る。最後の勤務は、車椅子利用者を含む七百人が来場する朗読公演だった。座席図には、客席後方から舞台袖へ抜ける青い矢印が手書きされている。

「非常時はここ。私が扉を開けて、裏口まで案内してた」

開演前、芙実は実際にその経路を歩いた。舞台袖の防火扉は、暗転中に出演者が誤って出ないよう、上演時だけカード認証へ切り替わる。芙実のカードでは開かなかった。有砂の管理者カードだけが通る。

しかも今夜、青い矢印の始点には物販台が設置され、段ボールが通路を半分塞いでいた。制作会社は「終演後だけ売るから問題ない」と言ったが、火事は終演時刻を選ばない。

芙実は物販台をロビー中央へ移し、車椅子席を非常口に近い列へ組み替えた。売場が狭くなると抗議する担当者には、避難幅を測ったメジャーを見せた。新人案内係には「有砂さんを呼ぶ、は手順にしない。誰のカードでどこが開くか、今ここで試そう」と声をかけ、全員で扉を確認した。

開場前、車椅子の来場者に新しい経路を実際に通ってもらった。曲がり角で一度だけ椅子の足が触れ、芙実は案内板を十センチ動かした。来場者は「特別扱いより、迷わない方がうれしい」と言って客席へ入った。その言葉を、芙実は配置図の余白へ書き留め、案内係全員が読める場所へ貼った。

公演は予定どおり始まった。暗い客席で青い誘導灯が途切れず光るのを見て、有砂は小さく息を吐いた。

「私、走れるうちは走ればいいと思ってた」

終演後、支配人は芙実へ、有砂の業務をそのまま引き受けるよう言った。公演進行、物販調整、非常時対応。肩書は変わらない。

芙実は座席図から手書きの矢印を消し、全スタッフが開けられる非常カードの配備と、物販配置の事前審査を追記した。そして、人事画面で以前から迷っていた〈アクセシビリティ運営担当〉の社内公募を開く。

今夜の修正版を実績資料に添え、応募を送信した。