雨が止む前の傘
駅前の屋根を打つ雨は、十分たっても弱くならなかった。
紗耶は折り畳み傘を一本だけ持っていた。宗介のバスが来るまで、あと七分。二人で入れば肩が濡れるし、渡せば自分が帰れない。
「持っていって」
「紗耶は?」
「コンビニで買う」
「また無駄遣い」
「家族みたいなこと言わないで」
口にした瞬間、宗介が黙った。
二人の母親は、高校時代からの親友だった。紗耶の父が家を出た年も、宗介の母が入院した冬も、四人で食卓を囲んだ。誕生日も正月も一緒で、周囲には「もう姉弟みたいね」と笑われた。
その言葉は温かかった。だから壊せなかった。
宗介を好きだと認めれば、食卓の席順まで変わる気がした。うまくいかなければ、帰る場所が二つともなくなる。
「来月から、母さんたちだけで旅行するらしい」
「聞いた。私たちも来ると思ってたって」
「家族旅行だから、だって」
「ほら。家族みたいなものじゃん」
宗介は雨の向こうの時刻表を見た。バスのライトが、遠くの交差点を曲がる。
「俺、見合いする」
「へえ」
「母さんの職場の人の娘」
「いいんじゃない。家族として応援する」
「それ、本当に便利だな」
紗耶は傘の柄を強く握った。
「何が?」
「家族みたいって言えば、何も選ばなくて済む」
「選んで失敗したら、みんな困るでしょ」
「みんなって誰」
「お母さんたちも、私たちも」
「俺はもう困ってる」
バスが停留所に近づき、濡れた道路を白く照らした。宗介は傘を受け取らない。
「見合い、断る理由が欲しくて言ってるんじゃない」
「じゃあ、何」
「紗耶が何も言わない理由を、俺の家族のせいにしないでほしい」
扉が開き、乗客が列をつくる。
紗耶は一歩、宗介に近づいた。
「家族みたいだから、大事なんじゃない」
「うん」
「大事すぎて、家族みたいって言って逃げてた」
宗介の順番が来た。運転手がこちらを見る。
紗耶は傘を開き、彼の頭上へ差しかけた。宗介はバスに乗らず、列の外へ出る。
「肩、濡れるよ」
「半分ずつならいい」
バスが二人を置いて走り去る。
紗耶は傘を渡さなかった。宗介も、別の傘を買いに行かなかった。二人は同じ狭さの中で、母親たちにはまだ送らない話を始めた。