雨に溶ける所有証
狐獣人コウヤの所有契約は、水に濡れると命令が強くなる。
だから商業都市の組合長は、雨の日を好んだ。
「帳簿を改ざんしたと認めろ」
窓を叩く豪雨の中、コウヤの喉から勝手に声が出かける。組合長が濡れた契約書を握るたび、狐の首筋にある墨色の印が締まった。
向かいの席で、旅の代書人ティアは紅茶を一口飲んだ。
「その供述を議事録に?」
「書け。奴隷の自白だ、証拠になる」
「では、正確に」
ティアは新しい紙へ文章を記した。
——本契約は、水分を得るほど効力を増す。
組合長は満足げにうなずく。
「そうだ」
「契約文にも同じ記載がありますね」
「当然だ」
「では読み上げます。古式契約法第三条。外部条件により効力が増減する所有契約は、意思確認不能につき締結時から無効」
組合長の笑みが凍った。
ティアは窓を開け、契約書を雨へ差し出す。羊皮紙は水を吸い、命令の術式を最大まで膨らませた。最大になったからこそ、無効条項も最大の力で発動する。
墨の文字が一斉に崩れ、紙から黒い雫となって流れ落ちた。コウヤの首筋の印も雨粒のようにほどける。
「待て! なら私の名で新しい契約を——」
ティアは羽根ペンを折った。
「私は契約を移す代書人ではありません。誤った契約を終わらせる代書人です」
コウヤは濡れた喉を押さえた。自由になった実感より先に、何を命じられるのか待っている自分へ気づき、顔を歪める。
「行ってください」
ティアはそれだけ言って、組合長の横領帳簿を衛兵へ渡した。
狐獣人は雨の街へ消えた。
翌朝、ティアが宿を出ると、軒下にコウヤが立っていた。乾いた外套を二着と、改ざんされていない本物の帳簿を抱えている。
「逃げる道も選べた」
「ええ」
「それでも、あなたの隣なら、嘘を書かずに働けそうだ」
コウヤは主人へ差し出すように帳簿を掲げかけ、途中でやめた。そして対等な机の半分へ置く。
ティアは椅子を引かず、コウヤ自身が席を選ぶのを待った。狐獣人は窓側へ腰を下ろす。
雨に溶けた所有証の代わりに、二人で使う最初の一冊が開かれた。