雨の匂いを売った夜

一夜市場の雨屋には、雲が瓶詰めで並んでいた。夕立は濃紺、霧雨は乳白色、春の通り雨は薄い緑。アニクは棚の奥にある、小指ほどの灰色の瓶を指した。

「庭一つ分でいいんです」

店主は瓶を取り、鼻先で軽く振った。

「この雨なら、枯れかけた草木を一度だけ咲かせられる。代金は、買い手がいちばん愛している匂いだ。払えば二度と、その匂いだけ感じない」

アニクの庭には、祖母が挿し木した白薔薇が一本残っていた。今朝、最後の蕾が首を垂れた。明日は店の開業日で、祖母はその日に合わせて咲くと信じていた。亡くなる直前まで、寝台から庭の方角を見ていた。

店の看板には、祖母が考えた名がまだ布で覆われている。開店したら最初の一輪を切り、空の椅子へ飾る約束だった。花がなくても店は開けられる。だが、その約束まで枯らしたくなかった。

いちばん愛している匂いなど、考えるまでもない。

祖母の髪に染みついた、乾いたラベンダー。幼い頃、雷が鳴るたび抱きついた肩の匂い。薬が増えてからも、櫛を通すと微かに立ち上がった。白薔薇の根元にも同じ花を植えたのは、忘れないためだった。

「ほかの匂いでは払えませんか。焼き菓子とか、潮風とか」

「愛していないものは代金にならないよ」

店主は責めるでもなく言った。

アニクは瓶を握った。薔薇を咲かせたいのは祖母のためではない。祖母がいない朝にも店を開ける自分のためだ。白い花を目印にして、ここまで来たのだと思いたかった。

けれど咲かせれば、花壇のラベンダーに顔を近づけても、もう祖母へ帰れない。

市場の天幕を、乾いた風が鳴らした。夜明けまであと一刻。庭では蕾が待ってくれない。

「匂いは、どうやって払うんですか」

店主が小さな漏斗を差し出した。

アニクは目を閉じ、祖母の肩へ顔を埋めた最後の夜を思い出した。温かな首筋。銀髪。ラベンダーと薬草と、少し焦げたミルク。

息を吐くと、その香りだけが淡い紫の煙になって漏斗へ吸われた。

灰色の瓶が雨音を立て始める。

アニクは栓を受け取り、まだ指に残っているはずの紫煙へ鼻を近づけた。

何も匂わなかった。