雨音と空いた会場

乃絵が婚礼相談室からの電話に出たのは、社内プレゼンの結果発表まで三分というときだった。

「十一月二十三日に空きが出ました。本日中にお返事をいただければ、第一希望の会場を押さえられます」

窓の外では、雨がガラスを斜めに走っていた。乃絵の机には、二枚の付箋が貼ってある。黄色には〈十一月二十三日・式〉、青には〈新規事業開始・十一月〉。選考に通れば、立ち上げ期間は休日も読めない。落ちれば、何も迷う必要はない。

婚約者の駿平は、朝のメッセージでこう書いていた。

〈会場、取れたら嬉しい。でも乃絵が忙しいなら来年でもいい〉

来年でいい、という言葉が、乃絵には怖かった。来年も同じ仕事をしている保証はない。来年も駿平が待つ保証もない。だからこそ、空いた日付をすぐ掴むべきだという焦りが、二十九歳の背中を押していた。

受話口の向こうでは、別の客へ出すらしいグラスの触れ合う音がした。乃絵の会議室では、プロジェクターの冷却音だけが続く。祝う場所と働く場所が、一本の電話の中で隣り合っていた。

電話口の担当者が、「いかがなさいますか」と尋ねる。

廊下の向こうで、上司が結果通知の封筒を持って歩いてくるのが見えた。白い封筒と、スマートフォン越しの空いた会場。乃絵はどちらも欲しかった。

「押さえてください」

言いかけて、喉が止まった。

結婚を優先したいのか、それとも、選考に落ちたときのために予定を埋めたいのか。自分でも分からないまま予約することだけは、駿平にも仕事にも失礼だった。

「今回は、見送ります」

担当者は短く承知し、電話を切った。

その瞬間、上司が封筒を差し出した。中には〈選出〉の二文字があった。嬉しさより先に、失った十一月二十三日が浮かんだ。

駿平へ〈会場は断った。仕事を受ける〉と送る。すぐ既読がつき、しばらくして〈了解。正直、残念〉と返った。

乃絵は黄色い付箋を剥がした。丸めず、手帳の後ろへ挟む。青い付箋だけを残し、結果通知に受諾の署名をした。

雨音の中で、ペン先が紙を擦った。残念を消さないまま進む線だった。