静かな肉豆腐
瀬尾直哉のスマートフォンには、母からの着信が五件並んでいた。
父が検査入院することは聞いていた。大きな病気ではない、と母は言っていたし、直哉もそう信じることにしていた。今週は退職した同僚の引き継ぎで毎日終電近くまで残り、電話を返す余裕がなかった――というのは、半分だけ本当だった。
残り半分は、弟に連絡するのが嫌だったからだ。
弟とは、祖父の葬儀以来まともに話していない。費用の分担で言い争い、直哉が「お前はいつも逃げる」と言ったまま、謝る機会を逃していた。母から「付き添いをどちらかお願い」と言われれば、自分が全部引き受けるか、弟へ頭を下げるかになる。
路地の居酒屋に入ると、客席は空だった。直哉は肉豆腐を頼んだ。
小鍋の中で煮汁がふつふつと揺れ、醤油と砂糖の甘い匂いが漂った。薄切りの牛肉の隙間で、豆腐が白い湯気をまとっている。箸で持ち上げた豆腐は、角を保ったまま柔らかく震えた。
口へ入れた瞬間、表面より中が熱かった。直哉は思わず息を吸った。
「肉からでもよかったのに」
店主が言った。
「豆腐のほうが早く冷めそうで」
「中までは、なかなか」
会話はそこで終わった。
直哉は母の着信画面を閉じ、弟の連絡先を開いた。文章を打つ。
父さんの入院、聞いてるか。
来週の水曜、俺は午後なら行ける。
午前を頼めないか。
送信する前に、指が止まった。弟から断られたら腹が立つ。既読がつかなければ、もっと腹が立つだろう。
それでも、自分一人で抱えて母に恩を売るよりはましだ。会社でも同じだった。引き継ぎ表を作れば誰かに頼めたのに、自分が早いという理由で仕事を抱え、遅くまで残ることを責任感だと思い込んでいた。辞めた同僚の分まで黙って引き受け、限界になってから周囲を恨んでいる。
直哉は送信を押し、続けて母へ「今から電話する」と送った。
父の検査結果は変わらない。弟との空白も、これだけでは埋まらない。
最後に残った牛肉は、煮汁を吸って濃かった。豆腐の芯にあった熱はまだ舌に残り、直哉はそれが消える前に母へ電話をかけた。