面会終了の丸椅子
集中治療室の待合には、家族の人数より一脚多く丸椅子を置く。
余分な丸椅子は時計の真下から動かしてはいけない。面会終了に間に合わない者がいる場合、その人の持ち物を一つ置く。置いた後は、到着を催促してはいけない。終了ベルまでに本人が来れば持ち物は返す。来なければ丸椅子ごと病室へ運び、それを患者が最後に聞く音のそばへ置く。
百々は、母の手術が終わるのを一人で待っていた。待合の自動販売機は温かい飲み物だけ売り切れ、冷たい水のボタンが十三秒ごとに青く光った。丸椅子の金属脚だけが、その光を毎回違う方向へ返した。
妹は新幹線で向かっている。実家を売る話で揉めてから、兄妹は三年まともに話していない。母が倒れた連絡も、病院から直接届いた。妹へ送ったメッセージには既読だけがつき、到着時刻は返ってこなかった。
百々は丸椅子に、古いカセットテープを置いた。妹が小学生のころ、家族の声を録音したものだ。実家の押し入れから出てきた。ラベルには妹の字で《ぜったい消すな》と書いてある。録音した日は台風で、停電した居間に三人で集まり、母が懐中電灯を顎の下から当てて怪談をした。百々は怖がる妹の声を面白がって何度も巻き戻した。
時計の針が進んだ。百々は駅の遅延情報を開きかけ、規則を思い出して画面を伏せた。母の手術は予定より早く終わったが、医師の説明は短かった。面会終了のベルが鳴っても、妹は来なかった。
看護師が丸椅子を病室へ運んだ。
母は目を開けなかった。枕元の機械が一定の音を刻み、カセットデッキもないのに、座面のテープだけが回り始めた。透明な窓の奥で二つのリールが動く。音は聞こえない。百々は母の手を握り、妹へ言うはずだった謝罪を、母の耳元で一度だけ口にした。
機械の音が止まった後、妹が駆け込んできた。規則どおり、誰も遅れを責めなかった。
妹は丸椅子からテープを取り、しばらく見つめた。
「これ、兄ちゃんが録ったやつだよ」
テープの片方の穴には、外された母の白い認証バンドが細く通されていた。リールはもう止まっていたが、バンドだけが、息をするようにゆっくり締まったり緩んだりしていた。