靴箱の上の文庫本

夜間中学の採用通知を受け取った日、遠乃は実家の靴箱から一冊の文庫本を見つけた。表紙には白い粉のような傷があり、天には青いペンで〈杏佐〉と書かれている。

高校二年の秋、杏佐は突然、学校へ来なくなった。母親が倒れ、小学生の弟二人の世話と家事を引き受けたのだと、担任は短く説明した。クラスでは「通信に移るらしい」「もう退学した」と噂だけが増えた。

遠乃は杏佐から小説を借りていた。夜の学校へ忍び込む姉妹の物語で、二人は休み時間ごとに感想を言い合った。

「最後、姉は妹を置いていくと思う」

「置いていくんじゃなくて、先に出口を探すんだよ」

杏佐はいつも、登場人物の逃げ道を信じた。

放課後、遠乃は本を返しに杏佐の家まで行こうとした。住所は知っていた。けれど制服姿で訪ねたら、普通に学校へ通えている自分を見せつけるようで怖くなり、角を曲がれなかった。

三週間後、登校すると、靴箱の上に同じ本が置かれていた。中にはメモが一枚。

〈続き、遠乃が持ってて。私はしばらく読む時間ないから〉

その日の夕方、杏佐の家は空になっていた。親戚を頼って町を出たと聞いた。遠乃は「返す相手がいない」と言い訳し、本を卒業後も靴箱へ置いたままにした。

十年たって読み返すと、物語の姉は妹を置いていかなかった。出口を見つけたあと、戻ってきた。ただし、同じ道では戻れなかった。遠乃が夜間中学の仕事を選んだのは、履歴書の空白を恥じる相談者に何度も会い、あの日の杏佐を思い出したからだった。

遠乃はSNSで杏佐を探した。苗字は変わっていたが、地方の給食センターで働きながら、高卒認定を取ったという投稿が見つかった。弟たちと笑う写真もあった。

本を送る封筒に、遠乃は言い訳を書かなかった。

〈あの角を曲がれなくて、ごめん。私は、学校へ戻りたい人の出口を探す仕事を始めます〉

翌朝、採用承諾書と封筒を同じ鞄へ入れた。過去へ戻る道はなくても、戻れなかった誰かを迎える扉なら、これから開けられる気がした。