鯉のぼりを洗う午後

 七尾千映は、実家の物干し台で大きな鯉を洗っていた。

 甥の初節句に、父が「昔のお前たちの鯉のぼりを出そう」と言い出したのだ。押入れの奥から出てきた鯉は、尾に埃をため、赤い一匹には小さな裂け目があった。

「新品を買った方が早いんじゃない?」

「泳げるのに、もったいない」

 父の邦彦は、庭へたらいを出した。

 二人でぬるま湯を張り、布を押すように洗う。黒い鯉から濁った水が流れ、青い鯉の腹には、子どもの頃につけたらしい泥の跡が残っていた。

「これ、千映が振り回してたやつ」

「兄でしょう」

「兄は赤。お前は青がいいって泣いた」

「覚えてない」

「親は、どうでもいいことほど覚えてる」

 洗った鯉を物干し竿へ掛けると、風を受けて少しずつ膨らんだ。

 裂け目は、母が残した裁縫箱の中の赤い糸で縫った。千映は裁縫が苦手で、針目が大きくそろわない。

「遠くから見れば分からない」

「今日そればっかり」

「空で泳ぐものを近くから採点する人はいない」

 午後三時、父が柏餅を出した。

 葉を開くと、青い香りが指へ移る。こし餡の甘さを番茶で流しながら、二人で庭の鯉を眺めた。

 甥はまだ遠方に住み、当日は動画で見ることになる。

「本人がいないのに飾るの?」

「こっちが飾りたいんだよ」

 父はあっさり答えた。

 千映は、行事は祝われる人のためだけにあると思っていた。

 けれど古い鯉を洗い、裂け目を縫い、空へ戻す時間は、父と自分のためにもなっていた。子どもの頃の春が、たらいの水から少しずつ浮かび上がる。

 夕方、三匹の鯉を庭の竿へ上げた。

 最初は垂れていた尾が、風が来ると一斉に持ち上がる。赤い鯉の縫い目は見えたが、そこから風が漏れることはなかった。

 父が携帯で動画を撮り、甥へ送る。

 すぐに、画面の向こうで手を叩く小さな姿が返ってきた。

 たらいの底では、赤い糸の切れ端が水に揺れていた。

 庭には濡れた布と柏の葉の匂いが残った。

 千映は空を見上げた。古い鯉は新品より少し色が薄く、それでも五月の青を腹いっぱい吸い込み、誰よりのびのび泳いでいた。