鴨脂の向こう側

江波暁人は、婚約指輪の箱を鞄に入れたまま「一枝」へ来た。

 三日前、恋人に返されたものだった。

「シンガポールの会社に決めた後で、どうして私に相談したの」

 採用通知が来た時点では、まだ決めていないつもりだった。けれど年収を調べ、住む地区を検索し、現地の同僚とオンラインで話した。恋人へ伝えたのは、承諾期限の前日だった。

「一緒に来るか聞きたかった」と言うと、「その聞き方は、来ない人を置いていく人の聞き方だ」と返された。

 店にはほかの客がいなかった。暁人が冷酒を一杯頼むと、店主は鴨ねぎの陶板焼きを火へかけた。鴨の脂が透明な粒になって弾け、陶板の上でぱちぱち鳴る。焼けたねぎの甘い匂いに、黒胡椒の乾いた刺激が混じった。

 承諾期限は明日の正午だ。行けば仕事は面白い。行かなければ彼女が戻る、という話でもない。返された指輪は、選択肢の片側を軽くしてはくれなかった。

 会社からは、独身なら身軽だろうという期待が透けていた。両親にはすでに、春には式を挙げるかもしれないと話してある。どちらへ進んでも、誰かに予定変更を説明しなければならなかった。鞄の中で指輪の箱だけが、決定済みの物のように四角く硬かった。

 店主は焦げかけたねぎを鴨肉の下へ移した。

「そこへ入れるんですか」

「脂を吸うからな」

 短い返事のあと、また陶板だけが鳴った。

 暁人は、採用担当へ送るはずだった「承諾します」を消した。代わりに、開始時期を三か月遅らせられるか、国内拠点から段階的に移れるかを尋ねるメールを書いた。断られたら、そのとき選ぶ。条件を聞くことまで、決断から逃げることだと思い込んでいた。

 明日はメールを送ったあと、両親へ婚約がなくなったと電話する。「仕事の都合で」とは言わず、自分が一人で話を進めたと伝える。指輪をいつ返金するか、彼女の荷物をどう渡すかはまだ決められない。

 鴨肉を噛むと、香ばしい表面から熱い脂がにじみ、下のねぎは驚くほど甘かった。別々だった味が、皿の上でだけは同じ熱を持っていた。