黄金契約の破り方
若き商会主コハクは、帳簿の桁を一つ誤り、王都最大の融資を失敗させた。救済条件は、敵対する金剛院家の令嬢との婚姻。商会も従業員も守れるなら、と彼は金の署名台へ向かった。婚姻後は名も屋号も金剛院へ吸収され、コハクという呼び名さえ契約上は消える。
婚礼兼合併式には、元の仲間の姿がない。失敗の日、コハクは全員を怒鳴って追い出した。責任を一人で背負うつもりだったが、相手には見捨てられたようにしか見えなかったはずだ。父の死後に継いだ商会で、彼が最初に学んだのは「損を出した者から席を失う」という掟だった。だから三人の沈黙を、当然の解雇通知だと思い込んでいた。
金剛院の当主が婚姻契約を開く。
「署名を」
その前に、朱塗りの店鍵が紙の上へ置かれた。番頭の茉白が、普段どおりの無表情で立っている。
「本店の鍵です。あなたが戻るまで、誰にも渡しません」
会場後方では職人頭の芹火が、役員席を一つ空け、そこへコハクの古い作業前掛けを掛けた。
「椅子は予約済み。社長じゃなくても、磨き係として使う」
川から汽笛が聞こえた。運び屋の綾雨が小型蒸気船を桟橋につなぎ、係留索を二重にして待っている。
「潮が変わっても離れないよ。乗るまでね」
当主が三人を追い払おうとした。茉白は契約の末尾を指す。合併には全支店主の承認印が必要だが、昨夜、三人は未払い賃金の代わりに三支店を買い取っていた。三つの空欄へ、三つの拒否印が落ちる。
契約は無効。失敗した融資も、金剛院が流した偽の相場情報によるものだと芹火が取引板を示した。
救われたはずなのに、コハクは店鍵を受け取れなかった。怒鳴った言葉は取り消せない。きっと契約を壊すためだけに来て、終われば去る。
「俺は、皆を追い出した」
「だから鍵を返してない」と茉白。
芹火は空席を引き、綾雨は三度目の汽笛を鳴らした。誰も謝罪を迫らず、誰も先に帰らない。
コハクは署名用の金筆を折らずに置き、店鍵だけを握った。店、工房、船。どこへ戻っても彼を迎える手があり、どれか一つを選ぶ必要はなかった。