黒いドレスの行き先
笹森円佳は、母の前で黒い演奏会用ドレスを畳んだ。
肩から裾まで細かな銀糸が入り、舞台の照明をよく弾く。母が音大の卒業試験に合わせて仕立てたものだった。今夜、円佳はそれを衣装ケースへ入れ、宅配買取へ送る。
「せめて次のコンクールが終わるまで待ちなさい」
母はピアノの椅子に座ったまま言った。
「申し込んでないよ」
「申込書は私が出したわ」
円佳の手が止まった。母はテーブルから控えを差し出した。氏名も曲目も記入済みで、参加料まで振り込まれている。
「勝手に出さないで」
「あなたが迷っていたから背中を押したの。ここで辞めたら、二十年が無駄になる」
リビングの壁には、幼い円佳が白いドレスで賞状を持つ写真が並んでいた。母は来客のたび、写真を指して「この子はピアニストになるの」と言った。円佳が出版社の校正部に勤め始めてからも、その未来形だけは変わらなかった。
円佳はスマートフォンを取り出し、主催者へ辞退のメールを送った。送信済みの画面を母へ見せる。
「参加料は返す。これから私名義で申し込まないで」
母の顔が白くなった。
「ピアノを捨てるの?」
「捨てない。弾きたい日に弾く。舞台に立つかは私が決める」
「才能があるのに」
「才能があることと、職業にすることは同じじゃない」
母は鍵盤の蓋へ手を置いた。音を出さず、指だけが昔の曲をなぞる。長い沈黙のあと、「ドレスまで売らなくても」と言った。
円佳は衣装ケースの蓋を閉じた。
「このドレスを着ると、お母さんの予定表に戻るから」
集荷の呼び鈴が鳴った。円佳はケースを玄関へ運んだ。母は追いすがらず、送り状の品名を見ていた。
〈衣類〉。
ピアノとも、夢とも書いていない。
配送員へ渡したあと、円佳は居間へ戻った。母が鍵盤の前を少し空けていた。
「一曲だけ、聴かせてくれない?」
円佳は椅子へ座らなかった。
「今日は弾かない。また私が弾きたい日に」
母は唇を結び、それでも蓋を閉じた。円佳はその音を、拒絶ではなく、次の選択まで待つ音として聞いた。