B面の三分間
瀬尾伊都が通っていた古書喫茶「リラ」は、今夜十一時で閉店する。
店を、ではない。四十年続いた営業そのものを終える。壁のレコード棚はほとんど空で、残っているのは、黒いジャケットの一枚だけだった。
伊都は窓際で、バンドのグループ画面を開いていた。三人のうち二人は既読。送ろうとしている文は、「今月で抜けます」。仕事が忙しいのは本当だったが、それだけではない。先週のライブで自分だけ音を外した。誰も責めなかったから、余計に居場所がなくなった。
店主が針を上げた。時計は十時五十七分。もう音楽を止めるのだと思った。
ところが店主はレコードを裏返した。黒い盤面を指の腹で支え、B面へ針を落とす。小さなノイズのあと、三分にも満たないピアノ曲が始まった。
「もう閉店ですよね」
伊都が言うと、店主は返事の代わりに、残った一枚へ値札を貼った。曲が終わるまで、レジを閉めないらしい。
伊都は席を立ち、レコードを手に取った。ジャケットの裏には曲目が二つ。A面は有名な七分の曲、B面は題名さえ小さく印刷された二分四十八秒。何度もこの店で聴いていたはずなのに、伊都はB面を覚えていなかった。
会計を頼むと、店主は針を上げるぎりぎりまでレジを打たなかった。最後の和音が消えてから、盤を柔らかな紙へ戻す。ジャケットの口を上にせず、横へ向けて袋へ入れた。取り出すとき、勝手に滑り落ちないように。
伊都はグループ画面へ戻った。「今月で抜けます」を全部消す。
代わりに、「もう一度だけ、あの曲を合わせたい」と打った。
送信した瞬間、二人分の既読がほぼ同時についた。返事はまだ来ない。
店主はレジの電源を切り、入口の灯りを落とした。伊都を慰める言葉も、続けろという視線もなかった。ただ、短いB面を途中で切らず、最後まで鳴らしただけだ。
伊都はレコードの角を抱えて店を出た。
続けると決めたわけではない。辞めないと誓ったわけでもない。失敗の直後に終わらせず、もう一曲ぶんだけ自分の音を確かめる。そのための三分間なら、まだ差し出せると思った。