『退職理由は白紙』
退職面談で、新堂梓は理由欄を空白のまま差し出した。向かいの人事部長、塩見隆之は困った顔をした。
「競合へ移るから書けない、ということですか」
隣には直属上司の蓮見颯が座っていた。彼は腕を組み、静かに言った。
「新堂は来季企画を持ち出した疑いがあります。退職日を待たず、今日で権限を止めるべきです」
梓はバッグから何も出さなかった。代わりに、人事の共有画面を開いてほしいと頼んだ。塩見が総務端末を操作すると、「若年層向け定額修理サービス」という企画書が現れた。提出者は蓮見、更新日は先週月曜。
「これが盗まれた企画です」
梓の声は平らだった。
蓮見は笑った。
「私の企画だ。君は補助資料を作っただけだろう」
梓はメール検索欄に件名を入力した。半年前、自分が塩見へ送った相談メールが出る。宛先は人事部長、CCは蓮見。添付ファイルの容量は現在の企画書と同じ一・八メガバイトだった。
「内容を知られたくなくて、面談予約を取り消しただろう」
蓮見が言う。
「取り消したのは私ではありません」
会議室予約の履歴には、面談前日の二十二時九分、蓮見のアカウントが予約を削除した記録がある。その三分後、彼は梓の添付ファイルをダウンロードし、翌朝、自分名義の共有フォルダへ置いていた。ファイルのハッシュ値も一致した。表紙だけは蓮見名義に変わっていたが、梓が試算途中で付けた青い付箋コメントまで、削除済み履歴から復元された。
塩見の顔から困惑が消えた。
「では競合に持ち出したという証拠は」
「あります」
蓮見が答えかけるより早く、梓はメールのCC欄を指した。競合へ送られた匿名メールの転送記録に、蓮見の私用アドレスが残っていた。自分で流し、梓へ疑いを向けたのだ。
塩見は退職届を二枚に裂いた。
「新堂さんの退職面談は中止します。新企画室への異動と主任昇格を提案します」
そして蓮見の社員証を机に置くよう告げた。
梓の空白だった理由欄は、最後まで白いままだった。