退職日はまだ来ない

朝光バイオの退職面談で、倉持颯斗は妙に晴れやかな顔をしていた。

入社から二か月。試用期間中の退職なら、会社も深追いしない。そう考えているのが透けて見えた。退職届には「一身上の都合」とあり、倉持は今週末を最終出社日にしたいと言った。前職が小規模企業で照会に時間がかかり、回答が来た朝に退職届を出した偶然も、御影には引っかかっていた。

人事課長の御影は、受理印を押さずに尋ねた。倉持が証明書の役職欄を三度も指でなぞったことを見逃さなかった。

「転職先へ提出する在職証明書には、研究主任と記載してほしい、と?」

「採用時の職位ですから。前職でも五年間、細胞培養チームを率いていました」

「その前職照会が、今朝終わりました」

倉持の指が、机の下で止まった。室内には、空調の音と、壁時計の秒針だけが残った。

御影は採用時の共有フォルダを開いた。履歴書の最新版には〈研究主任・五年〉とある。だが版履歴を一つ戻すと、同じ欄は〈検体配送・十一か月〉だった。削除されたはずの初稿は、オンボーディング用チェックリストに添付されたまま残っていた。

更新時刻は、紹介会社から〈主任級でなければ年収条件を満たせません〉とメールが届いた七分後。メールには倉持自身がCCされていた。

「紹介会社が書き換えたんです」

「編集者は、あなたの個人アカウントです」

「頼まれて整えただけです。もう辞める人間の過去を調べても意味がないでしょう」

御影は次に、入社初日のアクセス履歴を表示した。倉持は基礎手順書を一度も開かないまま、培養室の責任者権限を申請していた。申請理由には〈前職と同一設備のため研修不要〉。その文言も、虚偽の経歴を前提に承認されている。

倉持は椅子の背にもたれた。「なら、今日付で辞めます。それで終わりです」

御影はようやく受理印を持ち上げた。ただし退職届ではなく、隣に置いていた試用期間判定書へ押した。

「自主退職の受理は保留します。判定は本採用見送り、理由は重大な経歴詐称です」